第31話
ファルケノスの屋敷の玄関前で。
王子の別宅からの使者、正確にはニアベリル総大司教の使いが、私たちに要求を述べた。
彼らが望むのは私、ソフィア・ファルケノスの身柄。
ジュリアスと王子、両名を害されたくなければ、すみやかに私一人で屋敷まで来ること。
簡潔にそれを伝えた黒衣の魔術師は、こぶし大の水晶玉を取り出してこちらに向ける。
実力行使かと一瞬身構えるが、そこにはジュリアスたちの姿が映し出されていた。
つまり、二人が向こうの手中にあるという証拠の映像だ。
水晶の中のジュリアスは円柱状の結界に閉じ込められていた。
おそらくは総大司教の拘束魔法。
片や王子は気を失ったまま、縄で縛られ椅子に座らされている。
二人を取り囲むのはグランセアの権力者三名と、その配下と思しき騎士や魔術師たち。
それから驚くべきことに、ディートリンデの姿も。
期限は明日、次の朝日が昇るまで。
使いの男はそれだけを伝えると、フードで顔が見えない出で立ちのまま、闇に身体を溶け込ませ、魔術によってその場を立ち去った。
「消えた……」
問いただす暇もなかった。
それでも向こうの言いたいことはだいたいわかっていた。
『他に助成を頼めば人質の安全は保障しない』
『無用な交渉に応じる気もない』
『陽が昇るまでに来なかった場合は──』
そのあたりの脅しが言外に含まれているのは明らかだ。
拒めば──死。
ふと状況を顧みて、そんな言葉が脳裏をよぎり、腕が震え出す。
カタカタと。まるで自分の体ではないみたいに。
(……いけない!)
無理矢理感情をシャットアウトする。
恐怖に飲まれる寸前、胸を叩いて震えを押し込めた。
「タニア、私の騎士服を用意してくれる? それと、馬もお願い。一頭だけでいいわ。一番足の速い子を」
拳を握り締めて言うと、タニアは「いけません!」と声をあげた。
「おやめください、危険すぎます! 敵の狙いはソフィア様なのですよ!? 要求に従ってお一人でなど、わざわざ殺されに行くようなものです!」
「それでも、私が行かなければジュリアス様たちが危ないのよ。ここで手をこまねいていても、どうにもならないわ」
「ですが……!」
「落ち着いて、タニア。話を聞いて」
私はできるだけ感情を抑えて語り掛ける。
多分、ジュリアスもルーファス王子も殺されることだけはないと思う。タニアが安心できるようその結論を最初に伝え、こちらの考えを手短に説明した。
いささか甘い見立てかもしれないけど、そもそも二人を殺すメリットはなく、反面デメリットがあまりにも大きいと思うのだ。
特にルーファス王子はアルマタシオの王位継承権を持つ人物。
彼を弑した場合、誰を殺害の犯人に仕立て上げるにしても、国を挙げての大騒動になることは必至。
そのリスクを犯すよりも、ディートリンデの魔力で二人とも取り込んでしまう方が簡単だし利益も大きい。
ディートリンデが私への恨みのために総大司教たちを操っているのか、それとも魅了の力は使わずに同盟関係を結んでいるのかはわからない。
けれど、どちらにしても二人は生かしたうえで私だけは血を奪って殺す──それが向こうが狙ってくる、一番順当な帰結のように思われた。
「でも、それなら姉さんはどうなるのさ」
不意の声に私は振り向く。
そこにはグスタフが憮然とした表情で立っていた。
一部始終を聞いていたらしい。弟は入口の方へ回り込むと、私を外に出さないように立ち塞がる。
「大丈夫よ、グスタフ。私だってそう簡単にやられたりしないわ」
「……何か、助け出す作戦でもあるの?」
「え? えっと……」
「あるの? 姉さん」
「……い、今考えてる最中。私の解呪の血を飲ませて、向こうで味方を増やせばなんとか──」
「姉さん!」
私を叱るその声は、怒りよりも悲壮さを感じさせるものだった。
グスタフは詰め寄り、鼻先をかすめるくらいにまで近づくと、強く私を抱きしめる。
「ちょ、ちょっと、グスタフ」
「行かせないよ、絶対。ただ姉さんを殺させるためだけのところに……そんなところなんかに、絶対行かせやしない」
「グスタフ、離して。私のことならほんとに大丈夫だから」
「大丈夫なわけないだろうが! 姉さんは自分の命と引き換えに公爵を助けようとしてる! 僕にわからないとでも思ってるのか!」
大声に私の身体が跳ねた。
強い言葉で叫ばれたからじゃない。その声が今まで聞いたことのない、とても悲痛なものだったからだ。
続いてグスタフはたたみかけるように思いの丈をぶつけてくる。
「見てればわかるんだよ、姉さんが死ぬつもりだってことは。姉さんは、自分が死んでも公爵さえ助かればいいと思ってる。……でも、僕はそんなこと絶対に認めない。たとえ姉さんが望んでも……それをしたなら、僕は姉さんを許さない!」
「……グスタフ」
「僕は……まだ何も返していないんだ! 今までは、力がなくて……弱くて、幼いだけのただの子供だった! ずっと姉さんに守られてばかりだった! でも、騎士団に入って強くなって、ようやく姉さんみたいになれたと思ったのに……。これからは、僕が姉さんを守るんだって思えたのに……!」
声が震えていた。
すがりつくその身体は前よりずっと大きくなったのに、触れる感触は昔のグスタフのままで。
そんなグスタフに、私は何も言い返せなかった。
図星だったせいもある。けど、それ以上に、弟が見せた心の叫びにただ圧倒されていた。
そして、グスタフは断固たる口調でこう言った。
その言葉がここでは非難されるものであろうとも。弟は、誰にはばかるものかと強く声を張り上げた。
「王子や公爵なんて知ったこっちゃない。僕が大事なのは姉さんだけだ! 姉さんが死んでしまうなら……人質なんて……あぁ、公爵の命なんてクソくらえだ!」
「グスタフ!」
「──確かに、もっともなことですね」
私が弟をとがめようとした時、意外な方向から声がかかる。
「えっ」と、私もグスタフも驚いて、声の方を向く。
なんと声の主はタニアだった。
タニアは主人への暴言にもかかわらず、穏やかな表情でグスタフを見る。
彼女は先ほどまでの動揺した様子を消し去って、今度は真剣なまなざしとともに私へ向き直り、頭を下げた。
「ソフィア様、わたくしからもお願い致します。どうかご自分のお命を大切になさって下さい。なにとぞ、屋敷に留まり下さいますよう」
「タニア……どうして」
どうしてそんなことをためらいなく言えるのか。ジュリアスが心配ではないのか。
言葉が出ず、目線だけが合った時、タニアはゆっくりとうなずいて答えた。
「わたくしにとってジュリアス様だけでなく、ソフィア様も大切なお方なのです。あなたがいらしてから、ジュリアス様は前よりずっと明るく笑われるようになりました……。無論、もっとも優先すべきは当主たるジュリアス様の安全。ですが、そのためにソフィア様を犠牲にするなど、わたくしには到底受け入れられません」
「けど、タニア……」
「それに」と、彼女は再度グスタフを一瞥して言う。
「それに、わたくしも……姉を失う辛さは知っていますから。ジュリアス様には申し訳ないのですけど……いいえ、むしろ今の状況なら、ジュリアス様もグスタフ様のお気持ちを汲んで、笑ってお許しになられると思います。ですから、どうか」
姉を失う辛さ──以前タニアもお姉さんを亡くしたと言っていた。
彼女はきっと私たちを亡くなったお姉さんと自分に重ねて見ているのだろう。それはわかる。
「でも……『むしろ』ってどういうこと? 『ジュリアス様も許す』って……」
その言い方に何がしかの引っ掛かりを覚え、私は聞き返す。
「……そうですね……」
タニアはそこで何かを考えるように床に視線を落とした。
少しの間を置いて、彼女は「今こそお話しする時なのかもしれません」とつぶやく。
何のことかはわからなかった。この後、彼女がそれを打ち明けてくれるまでは。
『それ』とは、つまり──私を迎えるまでのファルケノス公爵家のこと。
言うなれば、私の知らないジュリアスの過去のことだった。
彼女は私たちに向けて、粛々とその過去を語り始める。
「ソフィア様、あなたがこの屋敷に来られる前、それよりずっと昔に、ジュリアス様は一人の寵妃を傍に置いておられました。寵妃の名は、エルネスタ・ラズノフ。すなわち、わたくしタニア・ラズノフの姉にあたるその者こそが、ジュリアス様の最初の妻だったのです──」
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