エピローグ -a.◆
数週間が経った。
先の事件から今に至るまで、穏やかな日々が続いている。
「新任のグランセア総大司教は、評判いいみたいだね。歳は若いけど考え方が柔軟で、分け隔てなく人の意見を聞くんだとか。前の総大司教、人選はちゃんとやったわけだ」
「当然だ。そうするように命じたからな」
ジュリアスとルーファスは例によって、ファルケノスの屋敷で何をするでもなくくつろいでいる。
ジュリアスの手首も、ルーファスの太腿も、今ではすっかり回復して傷痕すら残っていない。
二人は互いが気を許した空間で、紅茶を飲みながら近況を語り合っていた。
ただ、件の騒動、特に直接の関係者のことにまで話題が及ぶと、両人ともそれとなく言葉を選び、声も重くなる。
「その前総大司教……グンター・ニアベリルなんだけど、公式には病死として扱われてるらしいよ。今のところ、アルマタシオの関与を疑うような話も出ていない」
「向こうとしても大事にはしたくないだろうからな。真相を知っていても、公にはしないだろうさ」
それと同様に、ニアベリル配下の魔術師の処遇についても、グランセア側が口出しすることはなかった。
彼らは一律に処断され、祖国の地を踏むことなく土に還った。
オートマルトとブルオーノの死についてもやはり同じだ。
グランセアの示した筋書きとしては、権力闘争のもつれで協会の魔術師がアルマタシオ国内に騎士団長らをおびき出して殺害。その際、別荘で休暇中のルーファスが巻き込まれ、負傷したために魔術師たちは処罰されたということになっている。
そのように事実を捻じ曲げるのは、そうしないと事態が混迷し、両国どちらにも問題が生じるからだ。
グランセア側は、王子や公爵を捕えて害したことが明るみに出れば、外交上非常に拙い立場に追いやられることになり、アルマタシオ側も、ことにジュリアスにとっては、ソフィアの解呪の血が知れ渡ることは再び彼女が狙われる危険を生むことになる。
そのため、情報操作と隠蔽はいずれにとっても望むところであった。
ちなみに、ニアベリルは上述の部下の不始末により、トップの座を引責辞任したことになっている。
近く彼自身の正犯責任も問うため、アルマタシオに出頭させる予定だったが、それを待たずして死亡という経緯で取り扱われていた。
「ああ、それから、ジュリアス」
ルーファスは続いて次の話題に移ろうとする。
ただ、その前に姿勢を正し、一度真剣な表情になった。
一呼吸置いた後、ジュリアスに言う。
「ディートリンデ嬢のことだけど……彼女、亡くなったよ」
「ああ」
衝撃的な事実。しかし、ジュリアスは驚くこともなくうなずいた。
ルーファスもその反応を意外そうでもなく眺める。
「どうも拘留中の食事に毒が入っていたらしい。その毒は、長く体内に残存するよう調合されていて、吸血種の力で回復してもすぐに毒の効能が復活するものだったそうだ。だから何度か回復と機能停止を繰り返した後で、無駄を悟った彼女は自ら銀のナイフで喉を突いて自害した……。どちらにしろ、彼女のしたことからすれば極刑は免れなかったんだけど」
「……そうか」
他の首謀者と異なり、ディートリンデはすでにアルマタシオの吸血種であったため、彼女を裁くにあたってグランセアとの兼ね合いを気にする必要はなかった。
そして、まれな能力であっても魅了の力は公然と知れ渡っていたために、裁判となればその力で起こした数々の行為は罪科と認定されうる。
特に、王子であるルーファスを洗脳して行わせた行為の罪は重く、ジュリアスへの監禁、ソフィアへの殺人未遂、場合によっては外患誘致や国家反逆の罪すら科される可能性もあった。
「まあ、今後彼女が辿る末路を想像すれば、あそこで死んだ方が幸せだったのかもしれないけどね……」
「嫌な言い方になってしまうけど」と、苦い顔でルーファスは言葉を足す。
どうせ死刑になるのなら、長期間拘束され侮蔑や好奇の視線に晒され続けるより、早く処された方が苦痛は少なく済む。ルーファスのつぶやきはそんな思いからのものだった。
それにしても、誰がディートリンデの食事に毒を入れたのか。
彼女のそばに都合よく銀のナイフがあったことからも、自殺を誘導した外部者がいることは明らかだ。
さらに言うなら、毒は緩やかに意識を失わせつつ肉体の機能を停止させていくもので、苦痛を与えるタイプのものではなかったという。
ルーファスはその疑問に対する回答を、ジュリアスへの問いに変えて投げかける。
「ジュリアス、君さ……ここだけの話、ディートリンデ嬢に同情してただろ」
「……ソフィアには言うなよ」
明言せずとも是とする答え。
それを耳にしてルーファスの予想は確信へと変わった。
ジュリアスはディートリンデに対し、ある種のシンパシーを感じていた。
それは、真に心を許せる人間がいないという、強い力を持つ者が抱く疎外感。
ジュリアスの血の力。ディートリンデの魅了の魔力。子細は異なれど両者の根本は似通っている。
ジュリアスが自らの血に悩んでいたように、ディートリンデも自身の魔力を実は厭わしく思っていたのではないか。ジュリアスは心の奥底でそう考えていた。
もちろん、ソフィアを傷つけようとしたことは許せない。
だが、もしかしたら、出会う形が違っていたなら、唯一無二の理解者になりえた未来もあったのではないか。
そして、彼女の運命を狂わせた原因は、彼女をアルマタシオに招いた自分にあるのでは。
そんな思いをジュリアスは抱く。
「同情はいいとしても、責任を感じる必要はないからね」
ルーファスはジュリアスの心情を察し、釘を刺した。
「政略結婚はともかくとして、そこからソフィアちゃんを身代わりにして逃げたのは彼女の選択だろ。その後男を捨てて、サラドゥアンに取り入ったのなんて、ただのわがままじゃないか。すでに君の手を離れているんだよ。だから、気に病むことなんてない」
「……そうだな」
親友の言葉に背中を押され、ジュリアスは自分を納得させる。
(……そうだ、俺には心を許せる友がいる。それだけじゃない。ソフィアも、タニアだっている)
深く息を吐き、彼はルーファスにうなずいてみせた。
「そういえばルーファス、前から聞こうと思ってたんだが、前にお前が言ってた『妄想』って何だったんだ?」
「妄想?」
不意の質問にルーファスは首をかしげる。
「ほら、何か言ってただろ。ソフィアが解呪の血を持ってる理由は、推測できるけど個人的な妄想が入るとかなんとか」
「あ、あぁ。アレね」
ジュリアスが尋ねたのは、ルーファスがソフィアの血の解析結果を報告した時にこぼした言葉の意味について。つまり、何故ソフィアに解呪の力が備わっているのか。
ルーファスは「科学的根拠がないから好きじゃないんだけど」と前置いて、その問いに答える。
「要するに、ソフィアちゃんの解呪の力は、吸血種という種族を存続させるための自浄作用じゃないかと思うんだよ。自浄作用というか、抑止力というか」
「いや、要するにと言われても……。いまいち……というか、全然わからないが」
「えーと、つまりね」
説明に難儀しながらも、ルーファスは先刻から一転、楽しそうに身を乗り出して言った。
「僕らの血は、多かれ少なかれ他者を従属させる力を持っている。でも、これって種族全体から見れば必ずしも良いものとはいえないんだ。その力で意思を奪うってことは、考える力を失わせ、ひいては生きる気力を奪うことにもつながりかねない。血で同族を増やすにしても、誰かに血を与えることは、ともすれば退化への一途、最悪絶滅のおそれを孕んでいるんだよ」
「……何かいきなり壮大な話になってきたな」
そう言いながらも、ジュリアスは彼の理論にうなずく。
エルネスタのことを思い出し、彼女にルーファスの話を重ね合わせると、思い当たる節があったからだ。
「ディートリンデの魅了の力も、同じ危険性をより強い形で内包していたと思うんだ。他者を従えても皆が幽鬼のような有り様なら、そのコミュニティは早晩崩壊する。実際、彼女はその力のせいで身を滅ぼしたようなものだろ」
「まあ、な」
「一方で、ソフィアちゃんの血はそれに対する中和剤のような役割を果たす。ディートリンデと同時期に、ほとんど呼応する形でソフィアちゃんの血の力が現れたことを考えると、解呪の血は、種を存続させるための適応の表れじゃないかと考察できるんだ」
つまり、血の支配にはもともと種の存続を危うくする要素があり、ディートリンデの魅了はそれをさらに強くしたものだった。そして、ソフィアの解呪はそれらの危険を防ぐために吸血種の進化として自然発生的に生じたものである、と。
ルーファスの見解を約するなら、以上のようなところとなる。
「なるほどな……」
ジュリアスは一定の理解を示しつつも、ある種予定調和的なその考え方に同意を示すまではしなかった。
自らがその理論に傾倒することは、なんとなくソフィアを種族の歯車の一つとみなしてしまうようで、良い気がしなかったのだ。
彼が解呪の血に救われたことは確かだ。
また、その血のおかげで危機を乗り切ったことも、まぎれもない事実である。
だが、ジュリアスがソフィアを大切に思うのは、彼女の心根に惚れているからであり、種族の在り方とは何の関係もない。
解呪の血があるから、ではない。
彼にとっては、ソフィアがいるからこそなのだ。
(吸血種の存亡なんて知ったことじゃない。俺は、俺が大切だと思うものを守っていくだけだ。……今までも、これからも)
孤独な公爵の心を照らす、一人の無垢な少女。
ジュリアスは改めて、その愛しき人への思いを胸に抱く。
彼の心にもう、迷いはなかった。
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