006:暁雨、早朝に川原を散歩する(12)

「何の用や」


 背に取り付いている冷たい体に、呼ぶ名前も知らんまま声をかけました。


 のしかかるような重さです。只人ただびとであれば押しつぶされるかもしれません。


秋津あきつさん……お腹きました」


 ぜえぜえ苦しげに、半分だけの男は水気みずけの強い息を吐いています。


 何か水棲すいせいの化けもんなのは間違いあらへんのでしょう。


「血ならもう、くれてやったやろ」


「足りない足りない……」


 もだえるようなつぶやきが暗くくぐもって聞こえます。


 まあ半分だけで良かったですよね。全部ある体できつう抱きつかれたら、みょうな雰囲気にもなりかねんのですから。


「血をやったら辛抱しんぼうできそうか」


「はい……はい……辛抱しんぼう……」


 振り返って見ると、男はけるような肌の青白い顔に、脂汗あぶらあせをかき、こらえる顔つきでした。


 腹も減ろうというものです。


 見れば、破れた服よりも随分ずいぶん、体が育っていました。


 失った半身をやそうとしておるようです。


 それには何かでせいをつけなあきません。


 そのために我が家の家人かじんを襲われると困ります。助けたおんも知らず、食いついてくる物の怪もるのです。


 油断は禁物です。登与とよ弓彦ゆみひこを守らねばならんので。


 着物のそでまくり上げ、自分の左腕を出して、肌を手刀しゅとうでなぞると、そこの皮膚ひふけ、見るに血があふれ出てきました。


 痛みというほどのものは感じません。そういう感覚はもう死んだのでしょう。


 血の匂いに耐えきれんのか、片方だけの腕で私の腕にすがり、男は傷口に唇を寄せて、血をめました。


 見れば、口元はもう欠けてはおらず、可愛げのある丸顔のあごのあたりが再生されていました。


 川からひろって家に連れ帰った時、この物の怪には自力で回復する霊力ちからはまだありませんでした。


 死なんようにるので精一杯せいいっぱいやったんかもしれません。


 そのままでは、全身が再生するには長い時間が必要やったやろうな。


 布団に寝かせてやり、その時も私の血をやりました。


 味を憶えた化け物はまた襲ってくるかもしれませんけど、誰彼だれかれかまわずおそかるよりはええのや。


「そろそろ名を聞こうか」


 夢中の様子で血をめている男を、傷のある腕で押し返しておあずけ食わすと、やっと我に返ったような呆然ぼうぜんの表情をしていました。


「名前……忘れました」


「あるのは、あったんか?」


 名のない化けもんもいてます。


 それには適当な名を与えてやれば、使役しえきに応えることもあるのやけど、名のあるもん厄介やっかいです。その名を見つけてやらなあかん。


「あったと思います。皆が……呼んでくれた」


 仲間がいたのか、そんな時もあったことをなつかしむように、若い男は悲しい顔をしました。


 人を食うような化け物には見えませんけど、食うんでしょうね。血の味は知っているようや。


 優しげな美しい顔でも、化けもんは化けもんです。


「どこへ帰したらええんや、お前を。なぜうちの息子を呼んだ」


「分かりません。どこへ帰ったらええんやろ」


 そう言うて、男はまだ欠けた白い月のような顔で、さめざめと泣きました。


 だいの男がですよ?


 小柄こがらなほうではありますけど、でも一応、男です。


 なんで泣くんや。


 私が若かった昭和の初めごろには、男がメソメソするなど、もっての他でしたけどね。


 私も男の子が泣くもんやないて、それはそれはきびしゅうしつけられました。


 それでも泣くていうのやから、よっぽど悲しいんでしょうかね。この男も。


「うちにりたいなら、人を食うな。悪さするんもあかん。そういう悪い物の怪は、うちでは生かしておかんのや」


「僕はそんなんやないです……! そんなん……しとうない……ほんまです! 皆の……オトモダチやったのに……」


 急にげきしたせいか、男は一頻ひとしきり早口に言いつのったあと、気分が悪うなったんか、青ざめた顔で、がくりとくずおれました。


「ユミちゃん……ユミちゃんに会わせてください。僕の名前……知ってるはずや」


 しくしく泣きながら、男がそう懇願こんがんしました。


 そんなもん。会わせるわけにはいきません。

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