006:暁雨、早朝に川原を散歩する(16)

 てる神あればひろう神あり、と申しましょうか。


 困った時の神頼かみだのみ、とでも申しましょうか。


 ひろうた神か化けもんかの突然の襲撃に首をまれ、おぼろには私に助太刀すけだちする気配もなかったせいで、私は咄嗟とっさに祈ったようです。


 そういうつもりは無かったんですが。


 一体何に祈ったんやら。


 まさに間一髪かんいっぱつ


 こりゃ喰われるぞと私が危機感をおぼえたのとほぼ同時に、我が家の玄関を蹴破けやぶもんがありました。


 この家のかぎを持っているもんです。


 そやから蹴破けやぶる必要あれへんはずやのに、さすがはかんがええといいますか、うちの上の息子が大急ぎでけつけて参りました。


 なんせ危急ききゅうの事態でございますからね。


「おとん‼︎ 無事か⁉︎」


 怒鳴どなるように呼びかける動転どうてんした声と、廊下を走るけたたましい足音がして、こちらに近づいてきます。


 アキちゃんやな。たよれる息子やなあ。


 こうなるともう、そこらの神よりも、親想いの息子の方がよっぽどたよりになるのです。


「アキちゃん丸腰まるごしやで! 丸腰まるごし!」


 追いかける足音がして、どこかで聞いたような声が息子をたしなめております。


水煙すいえん水煙すいえん!」


水煙すいえん水煙すいえん!」


 二人してドタバタやってる音が座敷から座敷に走り回り、ほんまやったら私はもう死んでおったでしょう。


 敵が本気やったらね。


 そやけど、ひろうた化けもんは別に、悪いものやなかったのです。


 飢えて朦朧もうろうとはしたものの、私を喰うてはならんとは思っておったようです。


 ただみ付いて血を吸うただけでした。


 紙一重かみひとえやったけどね。すんでのところで思い直したようです。


 それやったら、まあ、ええやないですか?


 首はやめてもらいたかったですけど、どこから出ようが血は血や。


 もうんでしもたのやったら、そこから吸うてもろても、まあええかと。


「おとん‼︎」


 我が家の御神刀ごしんとう水煙すいえんを構えたアキちゃんが、廊下をすべる勢いで客間きゃくまの前までやってきました。


 お供のへびと。


 これはこれで霊験れいげんのあるへびですが、この際、説明は割愛かつあいしましょう。おそらく皆さまようご存知やさかいに。


 うちの跡取り息子の連れ合いの神で、水地亨みずちとおると名乗っております。


「やばいアキちゃん! おとんがもう喰われてるぅ!」


 びっくりしたように水地亨みずちとおるが申しました。


 化けもんに廊下でのしかかられ、血を吸われておった私を見下ろして。


「くっそ……る‼︎」


 気が短いんか、よう見もせずに息子が神刀を振り上げています。


 いや待て、アキちゃん。大丈夫や。


 そない言おうとしましたが、それが声になるより先に、振り上げられた水煙すいえん太刀たちのままおっとり言いました。


いやや。りとうないわ。こんなヌメっとした化け物。暁雨ぎょううは平気や。こんなもんにられたりせんわ」


 面倒そうに言うております。


 このところずっと、水煙すいえんは我が家の奥の座敷におりますが、太刀たちの姿ではありません。


 私はなるべく会わんようにしておりますんで、定かではないですけども、ほとんどの時間を人の姿でるようです。


 他ならぬ、息子が描いてやった絵の姿やそうで。


 そんなことができる太刀たちやとは、私は露程つゆほども思うておりませんでしたが、できるらしいですね。


 それも納得がいきませんけど、納得する他にどうしようもあれへん。


「おとん……大丈夫なんか?」


 太刀たちを下ろしたアキちゃんが、心配げにいてきます。


「大丈夫や……ちょっと訳ありで」


 返事したものの、おとうさん、アキちゃんにはこないな醜態しゅうたいさらしとうなかったなあ。


 おぼろはまだ放心しておいおい泣いてるし。なんでそこまで泣くのや。


「こら、おぼろ、しっかりせえ!」


 私やのうて水煙すいえんが、いかにも面倒そうにしかっております。


 それに余程よほどびっくりしたんか、おぼろはびくっと身を震わせて、我に返ったようでした。


「神ともあろうもんがぴいぴい泣くのやない。何やその奇態けったい格好かっこうは。尾羽おはうちらした鳥の丸焼きか?」


 水煙すいえんいぶかしげにきました。


 それにもおぼろは何とも言えん渋面じゅうめんになっていました。


 白づくめで羽毛まで生やした、動画撮影の格好かっこうで。


 確かに、迷うて飛び込んできた鳥のようやな。


「舞台衣装や」


 面白くなさそうに、おぼろがぽつりと答えました。


「浮かれた格好かっこうやな、お前は相変わらず呑気のんきなものや」


 感心してんのやらあきれてんのやら、水煙すいえんの口ぶりも相変わらず刃物です。


 ちょっとここは、撤退てったいさせるか。そう思った矢先やさき


「いつまで吸うてんのや、クソッ!」


 完全に八つ当たりやという口調で、おぼろが私に取りいてる化けもんの肩をつかんで、乱暴に引きがしました。


 痛いやないか⁉︎ こいつまだ俺の首をんでたんやぞ⁉︎


 しかし、そんなことでガタガタ文句言うてられる空気でもありません。


 息子の前やないですか。私にもたもつべき体面たいめんはあるのです。


「な……何やこいつ?」


 まだ水煙すいえんを中段に構えたままの息子が唖然あぜんいてきます。


 息子が見たそいつは、片側にしか手足がなく、可愛げのある顔には耳までけた大口おおぐちがあり、そこにはずらりと鋭い歯が。


 しかも血を吸うたさかいに、白いほほまで血塗ちまみれです。


 吸うた血でせいがついたんか、その目は爛々らんらんあやしゅう光り、見開かれていました。


 息はぜえぜえと荒く、身を強張こわばらせて震える様は、とても正気とも思えません。


 怪奇かいきそのものやな。


 こんなもんを幼いユミちゃんのそばに置くわけにはいかへんのです。


 そやけど、これが、ものを従えるということ。


「うぅ……」


 得体えたいの知れんうめき声とともに、大口おおぐちの化けもんは身をよじり、あらわになったその肌には、ザワザワと黒いあざのような、まだらの模様もようが現れてきました。


 化けるんかな、こいつ?


 そない思って、まだゆかに寝たまま見上げておりますと、男は呻吟しんぎんして身をよじり、そして、うしのうていた片側の手足をもりもりっと一気にやしたではありませんか。


「オエエエ! 何こいつ⁉︎ キモっ……キモ……オエエエッ⁉︎」


 皆が絶句して見守る中でも、ありがたい白蛇しろへびちゃんが青ざめて絶叫しました。


 もうちょっと風情ふぜいのある驚き方はできひんかったのやろうか。


「ふぅん。なるほど。お前、ハンザキやな?」


 苦笑の声で、水煙すいえんがそう言いました。

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