006:暁雨、早朝に川原を散歩する(20)

「アキちゃんも、一個も隠居いんきょできひんなあ。ユミちゃんの子守やら、ジュニアの世話やらあって」


 ぼやく口調で、しげるが部屋のふすまを閉じながら言うておりました。


 例の化け物がせっておる客間でのことです。


 何の化け物か分からん例の男はまだ、ぐったりと布団にうつ伏せてねむっておりました。


 それでも寝息ねいきはゆったりしており、回復してねむっているだけのようです。


 ひとまずの危機はだっしたと思ってよいでしょう。


おれは、てっきり今後はアキちゃんと絵ばかりいて遊んで暮らせんのやと思うてたのに、当てが外れてガッカリやわあ」


 とてもガッカリしてるとは思えんにこやかさで、しげるは言うておりました。


 寝間ねまにおる名も知らん化け物など、恐れる気配けはいもないところを見ると、しげるもなかなかの手練てだれです。


 気心の知れた神の枕元まくらもとすかのように、しげるはすとんと布団の側に座り、じっとねむる化物の顔をのぞんでおりました。


「こいつ可愛かわいい顔やんか。なあ、アキちゃん。そない思うやろ?」


 そういう自分も可愛かわいげのある顔で、しげるはにやにや言います。


可愛かわいがってもらいたいさかいに、化け物は可愛かわいい顔になるんやで。そやろ?」


 よう知ってるやないか、しげる。そない言うてほしそうに、め言葉を待ち受けている顔で、しげるがそう申します。


 そうやろな。こいつはだれかに可愛かわいがられとうて、こんな顔してるのや。


 ついさっきは、耳まで口がけた異形いぎょうつらやったくせに、今はもうあたかも人の良さそうなあま面構つらがまえです。


 そやから化け物は信用ならへんのや。


主人あるじがおるのやないか?」


 しげるは、それは大ごとやというように、化け物の顔をながめて言いました。


「何ぞ知ってんのやったら、もったいぶらんと早う話せ」


 布団の足元のほうにして、私は苛々いらいらと言いました。


 しげるはその様子を見て、くすっとうれしげに笑います。


「アキちゃん。タダやと言われへん。手伝うたら何くれる? 俺とまた、動物園に絵描えかきにいこか?」


「何で俺がそないなことせなあかんのや」


 目も合わせず渋面じゅうめんで答えたものの、見いひんでもしげる機嫌きげんそこねず笑っているのが気配けはいでわかるのです。


 いつも機嫌きげんのええたちでした、しげるは。


 捨てても捨てても追いすがってくる、こいつも悪い妖怪ようかいみたいなもんです。


 もう秋津あきつの家に関わるいわれもあらへんのに、いまだに去ろうとしません。


 こいつにはこいつの一生があるんやないかと私は思うのですけどね。


「俺はアキちゃんにまた、ぎょうさん絵いてほしいのやもん。おぼろは焼きもち焼くばっかりで、一個もアキちゃんに絵かせてやってへんやないか?」


「そないなことない」


 そう言うたものの、それは事実かもしれません。おぼろは常にさびしいたちでしてね。


 しげるにはそれが気にくわんのでしょうが、それはひとえに私の不徳ふとくいたすところでして。


「こいつ、動物園の山椒魚さんしょううおが言うてる山のぬしなんやないかな。人間につかまったていう、その山のぬしは、水族館におるんやで。あそこにも山椒魚さんしょううおがぎょうさんおるんや。アキちゃん知ってたか?」


 いや、知らん。俺はつくづく世を捨ててんのや。


 家にこもって、絵をくでなし、何をするでもなく、死んだも同然や。不甲斐ふがいない。しげるはそう言いたいのやろ。


 そやけど、俺もう死んでるのやで?


 今さら何をやるて言うんや。


 いつ果てるとも知れへんひまを持て余して、人ならぬ生涯しょうがいを生きていくだけやないか。


 けど、それを言うならしげるかてそうや。こいつももうせんなのやさかいに、どんだけ生きるやら分からんのです。


「行こうよ、アキちゃん。水族館。けど、こいつ、どないするん?」


 しげるはこともなげに問いただしてきましたが、実を言えば私には答えがあらへんのです。


 どないしたらええんやろな、こいつ?


 私がほんまに生きておったころなら、我が家は多くの式神しきがみを必要とする家やったさかいに、力ある神と見たら片っ端かららえて、この家につかえさせようと言うのが普通ふつうでした。


 そやけど、アキちゃんはもうしきはいらんて言うてるし。


 そんなら、どないすればええのやろ?


 それが一番ややこしいところなのです。


 ひろうてきたものの、私はこれを一体どうしたらいいんでしょうか?


 調伏ちょうぶくしいひんというのも案外、難しいもんです。


「返したら? もし主人あるじがおるんやったら、そこにもどせばええんやないか」


 分かりきった答えを教えるように、しげるが苦笑いの顔で言うてます。


 そうやな。そうやけど。


 何やろう。この胸のわだかまりは。


いやなんか? おぼろおこるで」


 さも可笑おかしいふうに、しげるはイヒヒと気味きみ良さげに笑います。


 そんなんやないぞしげるだんじてそんなんとちがうし、勝手に笑うんやない。


「何でいやなん?」


 笑う顔のまま不思議そうにしげるが聞いてきます。


いやなのやない。まだその時やない気がするだけや」


「その時とは?」


 キョトンとして、しげるは大きな目をさらに丸うしていました。


「こいつ何か足りんと思わんか?」


 上手うまく説明のつかへんまま、私はしげるたずねてみました。


 ほんま言うたら自分でも何が気になっておるんやら、よう分からんのです。


 そやけど、この化け物は、さっさと手放して一件落着というような浅いえんのもんと思えません。


 ただの予感ですけどね。


 けど一応、これでも巫覡ふげきの第六感やさかいに。


 それがいくさ一遍いっぺん死んだ程度で、えてしまうもんでは無いことをいのりましょう。


 しげるは急になやむ顔になり、しばらく思案しあんしたかと思ったら、矢庭やにわに横たわる化け物の掛け布団かけぶとんぎました。


 そこに横たわる身体はもう五体満足と言うてもいい。欠けたとこなど無いように見えます。


 もともと無かった側の体は衣服を失い裸体らたいでしたが、元からあった方の半分は着衣のままです。


 つまりこいつは、服は再生できひんのや。この衣服はただの服なのです。


 新たに生えた半身の、生白い足の付け根のあたりに、かわいた血のあとかと思うような赤茶けた模様がありました。


 どうやらあざのようです。


 猪目いのめ……いや、ハート型というのでしょうか、当世風とうせいふうには?


 なまめかしいと言えんこともないあざです。


 真新しいはだの上で、まるでそこだけ血がみたようや。


「ハートやな」


 しげるがしみじみと言うて、そのあざを指でっつきました。


 勝手に何をやってんのやお前は……。


 痛いのか、そうでもないんか、化け物が苦悶くもんする顔であわ身動みじろぎします。


「アキちゃん、これ見て」


 しげるふところから何かを取り出して、私に差し出して見せました。


 アレです。スマートフォン。


 ほんまにねこ杓子しゃくしも使うんやな。きつねたぬきですら使うのやから。


「これ」


 しげるは私に画面を突ついて見せます。


 その小さなガラス板には、一匹の山椒魚さんしょううおが映っていました。


 後ろ足の付け根に大きな猪目いのめ模様もようを持った山椒魚さんしょううおです。


 その少しかたむいた赤茶けた模様もように、見覚えがありました。


 たった今、そこでてる男のこしにあるのとそっくりです。まだら濃淡のうたんまでそっくり同じ。


「ショウちゃん……」


 画面に書かれていた名前を、私はただ読んだだけでした。


 京都水族館でショウちゃんに会おう。そう書いてあったのです。


 そやけど、それがこいつの真名まなやったのやな。


 布団に横たわっていた化け物が、急にぱちりと目を開きました。


「ショウちゃん」


 かわいてかすれた声で、優しげな顔の化け物がそうり返し、私をじっと見ていました。


「ショウちゃん……それ……僕の名前です」


 そう言うて顔をゆがめ、化け物は悲しげにうめきました。


「みんなが付けてくれた、僕の名前やったのに……あいつが、僕からったんや」

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