006:暁雨、早朝に川原を散歩する(21)

 名を奪われたやて?


 そないなことがあると思いますか?


 ありますね。


 現に私も息子に名前をられてしまいまして。


 元はこの私が秋津暁彦やったのに、今はしょうがなく暁雨ぎょううと名乗っております。


 そやかて息子に名前を返せというのも気の毒やないですか?


 もう死んだ親の立場で、そのような無体はできません。


 暁彦あきひこという名は、もう息子にやりましょう。私はそれで納得しておるのです。


 けれども、もし納得していない場合には、どないなるのでしょう?


 それは、もちろん……ひとつの名を争うて、二人の暁彦が同時に居ることになるわけです。


 それでは具合が悪いですやろう?


 どちらがその名で生きていくのか、決着をつけなあかんようになる。


 たとえ力尽くでもね。


 そして名を失うたほうは、一体どないなるのでしょうね?


 新しい名を得るか、そうでないなら、何者でもない者として、名前のない曖昧模糊あいまいもことした存在へとおとしめられることになる。


 それは大抵の場合、良いことではありません。


 ごく限られた例外を別にすればね。


「新しい名をくれてやったらええんやないのか。アキちゃんがおぼろに名をやったみたいに」


 しくしくと泣いている化け物を眺め、茂はどうでもええように言うてます。


 いや、おぼろはな、あれはまた事情が違うのや。


 あいつはもともと、定まった名前のあらへん化け物でした。そやから正体も無かったのです。


 名は体を表すと申しますよね。


 そやから、名が無ければ具合が悪いはずなのですが、あいつはその時々で都合のええ名に乗り換えることで、正体を変える化け物だったのです。


 難物なんぶつや。まつろうにもはらおうにも、何者か分からへんのやから。


 けど今は、アレはおぼろという名の神やと思います。


 そうやとええな。


 私が名付けたのやし、その名で呼んで応える限りは、アレは我が神や。


 しかし、水族館のショウちゃんはまた別の話です。


 その名で呼ばれたいと願うてるのに、別の者が名を奪ってしまったというのやから、まさに正体を奪われたようなものです。


 名を盗む化け物が、どこかに居てるということでしょうか?


 さあて。どういうことなのやろうなあ。調べてみないことには、私にも分かりかねます。


「行こうよぅ、アキちゃん。こいつの正体を調べに。俺も付き合うさかいに」


 いかにも嬉しげに茂がそう申します。


 付いて来んでええんやで、茂。なんでお前も来るのや。


「なかなかええもんやで、水族館。大水槽にはエイがいてるし、ペンギンやアシカもいてるのや。クラゲがぎょうさんおる部屋かてあるんやで、アキちゃん。イルカも見られる。楽しいよ、きっと……」


 何をしにいく気なんやと、こちらが不安になるような、遠足の前の日の子供の表情かおで、茂は力説し、じわじわこちらに詰め寄ってきます。


「行こ。な? お願いやから」


 手を合わせてこちらを拝み、茂は明らかに強請る口調でした。


 お前はよくも、布団で泣いてる神か物の怪かもわからん者をダシにして、人を遊びに誘えるな。


 そんない行きたいんなら一人で行けばええやないか。


 これは遊びやないんやぞ。たぶん。


「ショウちゃん……て呼んだらええんか? お前は水族館から来たのか。イルカが居てたか?」


「わかりません、わかりません!」


 私が尋ねても、半裸の男は布団に伏して、おいおい泣くばかりでした。


 こいつ、もうちょっとしっかりできひんのか。思い出せ、何かもうちょっとぐらい。


 いやはや。急かしても仕方のないことですね。


「皆、優しかった……」


 泣き腫らした目で、男はそれがいかにも重要というように、涙声で私に申しました。


「あいつも、優しかったのです。初めは」


「誰のことや。お前の名を奪った者か?」


「わかりません。優しかった……」


 ぽろぽろと大粒の涙をこぼして、男は懐かしむように呟くばかり。


 茂は首を傾げ、すっかり再生した、男の裸の半身を眺めていました。


「お前、美しいよなあ。まるで人間みたいや」


 感心したふうに言うて、茂は遠慮のう、泣き伏している者の尻を指先でつっついたりしました。


「やめろ茂。なにをやってんのやお前は……」


 思わず呆れた声になって、私はたしなめましたが、茂が手を出す気持ちもわからんでもない。


 物の怪には恐ろしい姿をしたものと、美しい姿をしたものが居ります。


 美しいものは、高い霊威のある神であることもありますが、そうではないものもある。


 人に媚びる化け物は、美しいのです。


 特に、人をたぶらかして食うような化け物は、時にはぞっとするほど美しいこともあります。


 それが怪異というものです。


「だってこいつ、ぷにぷにしてるんやもん。気持ちええで。アキちゃんも触ってみ?」


「アホ」


 もう率直に言いました。


 ややこしいことになるやろ。


主人あるじがおるのやないかて言うたんは、お前やろ。話を面倒にするんやない」


 最もややこしいのは、神やらしきやらを巡る、巫覡と巫覡の痴情のもつれです。


 もつれるんやない、茂。


「行くぞ」


「どこに?」


「どこって……お前が水族館やて言うたのやないか?」


「えっ、ええの? 俺も付いていっても。一緒に行ってええの?」


 もう嬉しそうに、茂が満面の笑みになって言いました。


「ええの、って……」


「やった‼︎ 行こ、行こ! 善は急げやアキちゃん。おぼろも帰ったし、ちょうどええわあ!」


 嬉々として言うて立ち上がり、茂はどたどたと歩いて部屋のふすまに手をかけました。


 なんでこいつと行くことになったのでしたっけ?


 俺はおぼろがええんやけどな……。


 しかし、ただ一人で供もなく、丸腰というのも落ち着かんものです。


 巫覡ふげきは常に式神の一人二人は連れ歩くのが当たり前なのですが。


 しょうがない。茂でも、居らんよりはマシでしょう。


 なにせこいつには、あの白狐びゃっこがついてくるのでね。


 

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