005:暁雨、米を炊く (2)

 ととと、と座敷ざしきから走り出て行く弓彦ゆみひこを追わんわけにもいきません。


 行った先で急に赤子ややこに戻ってしまうかもしれへん子やさかいに、一人歩きは厄介やっかいです。


 とにかく目を離さんように登与とよには厳命げんめいされております。


 仮にも、秋津あきつの当主であったもんが、なぜ妹に厳命げんめいされなあかんのや?


 そういう疑問もあるにはあるものの、ユミちゃんを一人にしたらあきまへんという妹のげんは正しい。


 やむを得ません。後を追いましょう。


 しかし廊下を走ったらはしたないて、我が家では昔からしつけているはずやのに、今や誰も守っておりません。


 なげかわしい。


 私は元当主として、家訓かくんを守り……。


 あ、今、台所の方からガラガラガッシャンという音がしました。


 やむを得ません。小走り程度はかまへんということに家訓かくんを変えましょう。


 なんせもう、令和れいわ御代みよやていうんやから、我が家も昔とはずいぶんちごうております。


「ユミちゃん」


 あわてて台所に行くと、弓彦ゆみひこが板の間で、なべかぶって立っておりました。


「なんでなべなんかかぶってんのや」


 思わずくと、弓彦ゆみひこなべの中から響く声で答えました。


「これはなべやあらへんえ。おかまどす」


 なべ……いや、かまかぶったユミちゃんが、みょう登与とよ声真似こえまねが上手いので、つい笑えました。


「ほんならなんでかまなんかかぶってんのや?」


 苦笑しながら聞き直すと、かまの下にのぞ弓彦ゆみひこの赤いくちびるも、にやにやわろうて見えました。


「空っぽやからやわ、おとうさん。これ、ごはんがあらへん」


かなしょうがないようやな」


 台所には食べ物の気配けはいはありませんでした。


 今日に限って皆が出払っています。


 ほんまやったら煮炊きをする使用人がいつもるようやったのに、買い物にでも出ているのでしょうか。


 その昔には、うちには無数の使用人がいて、誰もいいひんということは無かったのやけど、ずいぶん時が流れたものや。


 広大やった秋津あきつ嵐山あらしやま地所ちしょも、今ではすっかり小ぢんまりとして、この台所も元は別棟べつむねで建っていた炊屋かしきやを、戦後にあった接収せっしゅうの際に、わずかに残したこの離れのやかたにくっつける台所として、移築したもののようや。


 竈門かまどは、その移築にあたって新たに作り直したもんのようやけど、鍋釜なべかまや台所の室礼しつらいには、どことのう、かつてのおもむきがあります。


 自分では、秋津あきつの男子はけがれやというて、煮炊にたきの場所から遠ざけられていたものの、そないなこと常におかまいなしやったおぼろが時々、料理をするて言うて炊屋かしきやに行くものやから、行きがかり上ついて行くことが何度か。


 その時に見ていた竈門かまどと同じ様式ようしきのものです。


 あの頃は同じ竈門かまどが五つもとおもあるような台所でしたが、今は二つを残すのみで、それとは別に当世風とうせいふうの台所もしつらえられています。


 さっぱり分からへん。使い方が。


 これはどこに火がつくのや?


 IH cooking heaterアイエイチ・クッキング・ヒーターと書いてあります。IH?


 さっぱり分かりません。


「ユミちゃん……これ……使つこうたことあるか?」


 ある訳あらへんのに、ついいてしまいました。


 まだかまかぶっていた弓彦ゆみひこが、重たげな鉄製のそれを持ち上げて、ちらりと見上げてきます。


「ユミちゃん分からへん。まだ赤ちゃんやもん」


 かまの下からまことしやかに言うています。


 それもお登与とよの口調を真似まねたようで、小賢こざかしいこと。


「おとうさん、大人やからできるやろ?」


「大人やけど、米いたことあらへん」


 正直言うたら、平素へいその茶の一杯すられたことがありませんでした。


 そやけど、米?


 そないなもん、簡単ですやろう。誰かて米ぐらいけます。


 おそらくは、ですけどね。


 ユミちゃんは嬉しげにニコニコして、じっと見上げてきます。


 その顔が、恐ろしくおぼこい頃の登与とよに似て見えました。


 あれが弟やったらこんな感じやったのか、と思えるほどです。


 どんなことでも我がままを通すあたり、まったくよく似ておりますのでね。


「米、いて。おとうさん。僕、お腹空いたんや」


 かぶっていたかまをぐいぐい渡してきて、ユミちゃんはそう強請ねだりました。


「お米はね、ここに入ってんのやで。僕よう知ってんのや」


 台所のすみにある物入れの引き戸を開けて、弓彦ゆみひこ米櫃こめびつらしきものを探し当てていました。


 なんで知ってんのやユミちゃん?


 とにかく好都合こうつごうです。私には米がどこに仕舞しまってあるかなど見当もつきませんでしたので。


 米さえあれば、後はけばええだけです。


 そんなもん、簡単や。


 そう思いつつ、米櫃こめびつにぎっしりとまっている米粒こめつぶをじっとにらんでおりました。


 あのう。


 これ。


 なんぼほど入れたらええもんなんでしょうか?


 ひつの中に白木しらきますが入っており、半分ほど米に埋もれていましたが、これで米をすくえということでしょうね。


 一杯、二杯?


 そんなことが、この世でどれほどの問題やったというんでしょうか。


 そやけど今は、それが最も重要なのです。


怜司れいじお兄さんに聞いてみたら?」


 私がじっと米を見て固まっておりますと、ユミちゃんが苦笑いのような顔で見上げて、片手でつまむように持ったスマートフォンをぶらぶらして見せています。


 あっ? なんでや、それ、おとうさんのやぞ。


「米ぐらい誰に聞かんでもけるわ」


 めっとしかる顔をして、ユミちゃんから電話を取り上げ、ふところ仕舞しまいました。


 まったく幼児というのに油断ゆだんすきもあらへん。


 さっさと米いて、食わせてやりましょう。


 水入れて、火にかければええだけです。


 適当に、米櫃こめびつますで二、三杯すくった米をかまに入れ、水道に水を入れにいきました。


 昔はうちも井戸水を使つこうてましたが、昔あったようなポンプ式の井戸はもう見当たらず、やけにピカピカする銀色の流し台に、水道の蛇口じゃぐちがあるだけです。


 便利になったんやて登与とよは申しますが、どこの水やらわからへんのが蛇口じゃぐちから出てくる訳で、気色悪きしょくわるいと思わへんのでしょうか。


 上の息子が言うには、これは近江おうみから来た水やそうです。


 近江おうみですよ? 京の水やないんや……。


 京のもんがそないなもん飲んで、どうもないんでしょうか。


 どうでしょう。


 けど息子は一切いっさい気にもしいひんようです。水は水やろて言うてます。


 それが当世風とうせいふうなんでしょうかね?


 まあ……そうなんやろな。


「おとうさん、お水入れすぎやない?」


 横で楽しげに見ていたユミちゃんが言うています。


 うわ、ほんまやな。考えてるうちにかまから水があふれたわ。

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