2020年11月、嵐山

005:暁雨、米を炊く (1)

「おとうさん。おなかすいた」


 ゆさゆさと揺り起こされて目を開けると、驚くほど近くにおぼこ弓彦ゆみひこの顔があり、小さく息を飲みました。


 午睡ごすいに落ちていたようです。いつの間に寝たんやら。気がつくと、畳の上でごろ寝して、そのまま眠り込んでいたようでした。


 弓彦ゆみひこは畳に犬か猫のように伏して、じいっとこちらの顔をのぞき込んでいました。


「おとうさん、ねえ、おとうさん」


 小声でしつこく呼ぶのを聞いて、じわじわ目が覚めました。


 玩具おもちゃの散らかった部屋に、弓彦ゆみひこと二人きりでした。


 そういえば子守を頼まれて、積み木を積んだりするうちに、退屈してしもて、つい、とろとろ眠ったんでした。


 家着のつむぎのまま横になっていた体の上に、何やら子供の好むような、派手な色合いのタオルがかけてあり、弓彦ゆみひこが気をつかって、布団がわりにかけてくれたようでした。


 今さら風邪かぜなどひくはずもないのですが。


 何しろ、かれこれ七十年ほどもの間、ずっと死んでおります。


 そういうことなのだろうと思うのですが、自分でも定かではありません。


 自分がほんまに生きていたことがあるのやら……どうやら。


 生前は、秋津暁彦あきつあきひこという名で、私はこの家の当主でしたが、今はその名を長男にゆずり、暁雨ぎょううと、雅号がごうで名乗っております。


 うつろな意識で起き上がり、ちんまりと行儀ぎょうぎよう正座している小さい弓彦ゆみひこと向き合うと、弓彦ゆみひこ真面目まじめな顔で深刻そうに言いました。


「おとうさん、僕ねえ、お腹が空いたのぉ。そやのに誰もいてへんの。おとうさん、ごはん作れるぅ?」


 晴天せいてん霹靂へきれきとはまさにこれやなと思うような突飛とっぴなことでした。


 生まれてこの方、死んでからも含めてええんやったら、かれこれ九十年にせまろうかという長きにわたって、米粒こめつぶひとついたことがありませんでした。


 そういうことは秋津あきつの男子はしいひんのです。しきたりです。


 炊屋かしきやに男子が立ち入ると、米がけがれるとか、竈門かまどの神さんが怒らはるとかいうて。


 まあ……そういう。古いしきたりがあったんですが。


「アキちゃんお兄ちゃん、お留守番るすばんに来るてお約束やったのに、きっと忘れてんのやで。しょうがない人やなあ」


 大人びた口ぶりで言いながら、弓彦ゆみひこは三つ四つの幼子おぼこやったのに、するするっと七才ほどに背が伸びていきました。


 ユミちゃんはまだ行儀ぎょうぎが悪うて、通力つうりきれるさかいに、一日のうちでも大きゅうなったり小そうなったりするのです。


 そのせいで、家からおもてへ出してやることもままなりません。


 散歩がてら誰かがついて行ってやって、外の世界も見せてやったりはするのですが、まだまだ危なっかしゅうて、とてもやないけど外のもんとは遊ばさせてやられへんのです。


 うちの子に万が一のことでもあったらあきまへんさかいに……と、登与とよが申しますもんで。


 登与とよは私の妹で、弓彦ゆみひこの母親です。


 あ。それは皆さんご存知ぞんじやったか。


「おとうさん、僕とおとうさんで、ごはんを作ろうよ。僕、おにぎり食べたいんや」


 いつもよりちょっと成長したユミちゃんが、つんつるてんになった子供用の肩揚かたげげした着物から、にゅうっと長い手足を生やして、うれしそうにすっくと立ちました。


 こうやと決めたら梃子てこでも動かん子です。全く誰に似たんやら。


 そら、まあ、登与とよに決まっておりますけどね。


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