006:暁雨、早朝に川原を散歩する(18)

「ユミちゃん」


 座敷にけ込んできた弓彦ゆみひこは、満面の笑みで、赤毛のタヌキのようなもののヌイグルミを抱いておりました。


 その笑みと向き合う登与とよは怖い顔で息子の名を呼びました。


「川でひろてきたアレが、さっき、お父さんをんだんどす」


 出会いがしら登与とよがそないなことを申しますもので、私も、ユミちゃんも、座敷でぽかんとしました。


 ユミちゃんなどは、まだ何を言われたのかわからず、笑顔のまま止まっています。


「危ないのやおへんか。あないなもん、また川に返してこなあきまへん」


 登与とよは難しい顔をして、弓彦ゆみひこにそう言い渡しました。


「ダメェ!」


 ユミちゃんは急に怒って、抱いていたヌイグルミをたたみに落として言いました。


「ダメェ! ケガしてるんやで。カワイソウ」


 可哀想かわいそうやて、ユミちゃんはあせったように言うております。


 もう怪我けがしてへんけどな。アレ。


 もう治ったのやけど、ユミちゃんは出かけていて、まだアレの回復を知りませんでした。


「もう治ったさかいに、よ出ていってもらいよし。うちの神さんやありまへん」


 登与とよは断固として言うてます。


 元々、アレを助けることに特にお登与とよは反対もしていいひんようでしたが、実のところ、賛成でもなかったのでしょうか。


 アレ……。まだ我々が名も知らんもんです。


「イヤダァ‼︎ ユミちゃん約束したもん。助けるのォ‼︎」


 落としたヌイグルミまで盗られるとでも思うんか、あわてたふうに弓彦ゆみひこはその赤毛のタヌキをひろい上げ、ぎゅうっと抱きしめています。


 なんやあわれやな。


 私も少々疲れたんか、弓彦ゆみひこを見ていると可哀想かわいそうになってきました。


「ユミちゃん、お母さんいつも言うてるやないの。通りすがりのもんと、勝手に何か言い交わしてはあきまへん。知らん顔しよし。それも分別ふんべつどすえ」


 教える口調で登与はそうさとしておりますが、側で聞いているアキちゃんも、腹でも痛いんかという暗い顔つきです。


 たぶん私も、そんな顔してたのやろな。


 見かねて、つい口をはさんでしまいました。


「ユミちゃん、心配しいひんでも、あいつはもう大丈夫や。けど帰るところがどこやか分からんて言うてる」


 ヌイグルミを抱きしめて突っ立っている弓彦ゆみひこに、納得させようと思い、言いました。


 確かに、あいつはちょっと危ないかもしれへんな。


 登与とよの肩を持つわけやないですけど、いきなり噛み付いてくるもんが家にったら困りませんか?


 私はまあ、かまわへんけど、ユミちゃんはまだ小さいのやさかい。


「あいつが何者なにもんやったか、ユミちゃんは知ってるのやな?」


 そっぽ向いてる弓彦ゆみひこに、なんとかしゃべってもらわれへんかと思って聞きましたが、もうへそを曲げてしもたようです。


 登与とよが頭ごなしに言うもんやさかいに。失敗したなぁ。


「ユミちゃんが話してくれへんでも、おとうさんやアキちゃんお兄ちゃんが調べたら、わかるのやで?」


 そやからあきらめろと言うたつもりやったんですけど、そんなん言うたらあかんかったですかね?


 ユミちゃんは、ウウウッと苛立いらだたしげにうめいたかと思うたら、急にポンとちぢんで、座敷の真ん中で赤子ややこになってしまいました。


「ああ⁉︎」


 今さら驚くことでもないのですが、目の前で弟が赤ちゃん返りしてもうて、アキちゃんがびっくりしていました。


「ちょ……弓彦ゆみひこ、それはないやろ」


 畳の上で自分の服に埋もれ、わぁわぁ泣いてる赤子ややこを見下ろして、暁彦あきひこが参ったという顔でした。


「泣いたかてお母さんは知りませんよ。ユミちゃん。そんなんしたかて、何もええことあらしまへんえ!」


 まだ断固として登与とよが言うてますが、そんなん言うたかて後の祭りです。


 ユミちゃんへの説得は失敗しました。


 何一つ聞き出せていません。


 弓彦ゆみひこがアレと何を約束したのかも分からず、名前さえ分からんのです。


「おとん、あいつ家に置いておくんか。目覚ましてまた暴れたら、どないするんや」


 暁彦あきひこが困った顔で聞いてきます。


 私も思わず深いため息がれました。


「アレは人を探しているらしいのや。悪い神やない。ミズグチという人間を探してると言うてる。そいつは、おそらく、もう見つかったのや」


 着物のそでの中で腕組みをして、私は仕方なく息子に教えました。


 暁彦あきひこがアレをなんとかするでしょうか?


 まあアキちゃんが秋津あきつの当主なのやし、後のことは任せてもええな。


 アキちゃん自身には特にになんの関わりもあらへんもんやったけど、我が家の問題ではあるわけやしな。


 しかし、私がついひろてきてしもたもんを、まだこれとった経験もあれへん息子に押し付けることになるとは、幾分いくぶん、心苦しいのです。


 息子には息子の仕事もあるわけやしねえ?


「もう見つかったって、どこでや?」


 困り顔で息子が聞いております。


おぼろが見つけた。東京で」


「はぁ?」


 暁彦あきひこはまるで話が見えへんという顔です。


 そりゃそうやろな。私にもまだ筋道立った話など見えてはおりません。


 しかし、こういうことは往々おうおうにして、えんに引き寄せられて進むものです。


 あの川の神をひろうてきた後に、おぼろが仕事先で偶然行きうたもんが、アレの探し人と同じ水口みずぐちという名だったのが、偶然ということはありません。えんのあることや。


 おぼろもそない思うたさかいに、わざわざんできて私に知らせたのです。


「おとん、俺にはまだ、さっぱり分からんわ。そのミズグチていう人を、あの妖怪はなんで探してるんや」


「俺も知らん。しかし、あの神がその男を探しているなら、それと引き合わせれば、助けたことになるやろう。その後のことは、我が家は預かり知らんのや」


 そういうものやて、私は暁彦あきひこに教えたつもりやったのですが、息子は納得しかねるという顔でした。


「はぁ?」


 すっとぼけた声で、アキちゃんはそう言いました。


 えっ。はぁって何や。


「そんなんでええの? その後どうなるか、見届けんでもかまへんのか?」


 うん、まあ、そういうことやな。


 私がうなずいて見せると、暁彦あきひこはまた、さらにみょうなもんでも食うたような表情になりました。


「そんなん変やないか? もしあの化け物が、そのミズグチさんていう人を殺すとか、怪我けがさせるとか、なんとかかんとか悪さするつもりやったら、それってアレと引き合わせた俺らのせいやってことにならへんのか?」


「えっ」


 アキちゃんの話に、次は私が驚く番でした。


 ええ? そうですか? 私が悪いんやろか?


 もし、あの化け物が、なんとかかんとかするつもりやったら、うちの責任なのですか?


 そんな……。


 それやったら最初から、助けへんほうかよかったですよね?


 触らぬ神にたたりなしって、昔の人も言うてはるけど、ほんまやなぁ。


 そない思て、私が暁彦あきひこと軽く見合みおうておりますと、息子は意を決したように、すっくと立ちました。


 そして、座敷の真ん中でまだ泣いていた赤子ややこのユミちゃんを、アキちゃんは抱っこして、あやすように言うて聞かせました。


「ユミちゃん、心配いらへん。お兄ちゃんがアレ、なんとかするしな。怒らんといてくれ」


 そう言うて、アキちゃんがじっと見つめると、その腕の中の赤子ややこが泣き止みました。


「お兄たん……」


 舌っ足らずな甘い声で、ユミちゃんが言いました。


 赤子ややこやのに?


 お前、しゃべれるんやないか?


 おとうさん知らんかったわ。しゃべれへんのやと思うやんか。それが常識やぞ。


 ほんまに我が家では何一つまともではありません。


 そないあきれておりますと、廊下のほうからドタドタ走る音がやってきました。


「ユミちゃぁん、これタヌキ! ぎょうさんありすぎて、俺ひとりやと持たれへんわぁ」


 機嫌のええしげるの声がしました。

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