第10話

 農家の朝は早いというが、稔が指定した午前五時は、朝日が顔を出して間もない、透明な空が頭上に広がる時間帯だった。昇ったばかりの太陽が葉月の背中を照らし、路上にその姿を投影する。長く伸びた影を眺めながら、葉月は自転車のペダルを踏み込み、徐々に重くなるそれを恨めしく思った。


 稔の誘いに二つ返事で乗ったものの、外で活動しやすい服装など持っていなかった葉月は、とりあえずアウトドア用品の店に行き、それらしい上下を揃えた。ネットの記事を参考にしてみたものの、『喫茶店の店主が兼業農家で、その店主の勧めで足を運んだ畑に踏み入るのにふさわしい服装』などという項目があるはずもない。


 喫茶店でのアルバイトと農業が結びつかないのは篤子も同じで、「珍しいこともあるものね」と呑気な口調で言っていた。その顔がどうもいたずらを仕掛けた子供のように楽しそうなのが気になったが、アルバイトを始めた真意を察しているはずの篤子に「別にそんなんじゃないからね」と返すと、篤子の目尻に皺が寄った。


 檜山の農場は、三方原台地の上にあった。台地の縁に位置する葉月の実家からの道のりは思った以上に険しかった。それこそ、センター試験を受けに坂の途中にある医大に行ったことがあるだけで、台地の上まで登った記憶はない。葉月はサドルから腰を浮かし、坂道を登る。前かごに突っ込んだ長靴が地面の凹凸を受けて時折跳ねる。太ももが悲鳴を上げそうになる。


 どうにか坂を登り切ると、平坦な道が続いていた。台地に出たのだ。何度か緩やかなカーブを曲がり、家を出て二十分ほど過ぎた頃、葉月の視界に『檜山農場』という看板が映った。


 自転車から降り、看板を頼りに道路から横道に進む。大きく枝を伸ばした樹木が通路の左側に立ち、脇には耕作用の重機が並ぶ車庫があった。その反対側には広大な畑が、見渡す限り広がっていた。


 踏みならされた土の感触を足の裏に感じながら、しばらく歩く。踏み出した勢いで蹴り飛ばした小石が転がる先に、稔が立っていた。グレーのつなぎに長靴を履いて、左右のつばが巻き上がった帽子を被った姿が、朝日に映えていた。


「おはよう。いい天気になってよかった」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 葉月は自転車を停め、頭を下げた。

「サマになってるね。じゃあ、檜山さんに挨拶に行こう」


 稔に服装のことを言及されたのは、思えば初めてだった。裾の絞られた作業ズボンに薄いピンクの長袖Tシャツ、その上にウインドブレーカーを羽織った姿であることを忘れ、葉月は照れ笑いを浮かべた。


 檜山はすでに畑に入り、作業をしていた。じっと腰を屈め、作物の様子に目を配るその姿は、克則を担いできた時の快活さとは違う、仕事に向かう厳しさや緊張を孕んでいるようで、葉月は緊張に足を硬くした。


「檜山さん、おはようございます」

「おはようございます」

「やあ。おはよう」作業の手を止めてこちらに向き直った檜山が、葉月の姿に一瞬呆けたような顔をし、「あれ、喫茶店の?」と目を瞬いた。


「そうなんです。今週からうちで働いてもらっている山瀬さん。今日はこっちの手伝いをしてもらうことになって」

「あの、えっと、山瀬です。先日は父の件で、すいません。今日はよろしくお願いします」


「やいやい、会長さんの娘さんけ。全然気づかなんだ」檜山は腰に手を当て、葉月をまじまじと見た。

「はい」

「まつりも無事に終わって、会長も肩の荷が下りたら」


「ええ。昨日は一日中寝てました」

 葉月の答えに、檜山は満足そうに笑った。

「初めてのことで戸惑うかもしれんけど、わからんことがあったらなんでも聞いて」

「ありがとうございます」


 まだ作業があるという檜山を残し、稔と葉月は畝を跨ぎながら自転車を停めた場所まで戻った。背負っていたリュックを下ろして帽子を被り、車庫の軒先で長靴に履き替える。リュックと靴を車庫の奥にあるプレハブの事務所へ置いて、「早速準備を始めよう」と言う稔について隣の建物の前に立った。


「ここに鎌とか鍬とかをしまってるんだ。今日の教室の教材もここに」

 がらがらと引き戸を開けると、そこは土の香りが染み付いた八畳くらいの空間だった。壁際に大小様々な農機具が種類ごとにフックにかけられていた。中央には小さなプラスチックの箱が並び、中にはハサミやタグ、軍手などがひと組ずつ揃えられていた。


「その箱を二つ重ねて持って」稔がそう言って、箱を重ねて持ち上げた。葉月もすぐにしゃがみ、稔に倣って箱を抱える。それほど重くもない箱を両手に、そのまま小屋を出る。


 後から小屋を出てきた稔は、片手に箱を抱え、もう一方の腕で鍬を従えていた。その姿は喫茶店でぱりっとした空気を纏う青年とはまるで違い、地に足のついた男性の気配に満ちていた。稔だからそのような感慨が胸に迫るのか、葉月は不意に込み上げる感情の行き場を探した。


「畑に案内するから、ついてきて」

 稔はそんな葉月の心の内を忖度するでもなく、鍬を握った手でドアを閉めると、来た道を引き返した。車庫の前の通りを奥に進む。畑は複数の区画に分かれているようで、通路から横にいくつかの細い道が伸びていた。作物で分けているのか、それとも収穫時期で分けているのか、一見すれば同じに見える畑の様子に目を凝らしていると、前を歩く稔が「こっち」と顔を向けた。


 細い道に何か目印があるわけでもないが、稔は迷うことなく横道に入っていく。畑の畝とは違い、平な道だった。稔の背中を追いかけていると、緑色の支柱に囲まれた区画が目に入った。縦横大体二十メートルくらいだろうか。それなりの広さがある一角は、その支柱から伸びる化繊の網によって仕切られ、小ぶりの畝が十列ほど並んでいた。周りを青々とした野菜の葉に囲まれたそこには、まだ何の作物も植えられていない、むき出しの耕作地が広がっていた。


「ここなんですね」

「とりあえず、道具はこっちに置いておこう」

 稔は区画の奥まで進み、その境界あたりに鍬とプラスチックの箱を降ろした。葉月から残りを受け取ると、それをさらに重ねた。稔はそこで軽く伸びをして、「よしよし」と言いながら掌を叩いた。


「次は何をするんですか?」

 葉月は稔の背中に声をかけた。腰に手を当てた稔が振り向き、思案顔をする。

「そうだな……。苗の様子を見に行こうか」

「それも農業教室の教材ですか」


「うん」稔は話しながら細い道を引き返していく。「今年はトマトとナスを作ることになってるんだ。両方とも夏の野菜だから、今くらいはちょうど苗が成長する時期で——」


 嬉々として説明を始める稔の声が心地よかった。朝の密やかで清涼とした空気が葉月の胸に染み渡っていく。農業のことは何ひとつわからなくても、稔の言葉を聞いていると自分もそれに携わっているのだと感じる。太陽に触れ、土を耕し、作物を植える。人間が文明を築く前から脈々と続けてきた農という営みは、自然と一体になってその恵を得る、原始的で基本的な業なのだろう。


「畑仕事っていってもそこは教室だから、全てを生徒さんにやってもらうわけにもいかないし、それなりに大変な部分もあるんだけど」

 農場の通路に戻り、苗を管理しているというハウスの並ぶ区画に入る。ハウスでは苗以外にも、夏の野菜を作っているものもあるらしい。


 稔はひとつのハウスの前で立ち止まり、扉を開けた。一歩踏み出すと、途端に濃度の濃い空気が全身を覆った。土の醸す湿気を伴った柔らかな芳香と、植物から発せられる濃密で青々とした熱気が葉月の鼻をくすぐった。普段の生活では感じることのできない、これは生きているものの匂いだ。初夏の空気とは明らかに違う、まるで真夏のそれを肺いっぱいに吸い込んだ。

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