第14話

 葉月の想像通り、農業教室は終始のんびりしたリズムのまま進行した。畑に集まった参加者たちは、檜山から今日の流れを一通り説明されたあと、一旦事務所に入って座学に臨み、連れ立ってハウスに入った。檜山の用意した、土の入った容器やスコップ、ポッドを各自に配り終わると、実習が始まった。


 参加者が間隔を空けて座り、まずは土をポッドに入れる作業に入った。中央に窪みを付け、苗を移す場所を作るのだ。

「次は苗を植え替えましょう」

「あまり押さえつけないでくださいね」

 稔と檜山は、五人の手元を確認しながら適宜アドバイスをする程度で、基本的には参加者のペースに任せている様子だった。始まってしまえば自分の出番があるはずもなく、稔の声を聞きながら、葉月は仕方なく篤子のそばに座った。


「押さえつけない方がいいって」

「野菜も優しさが大事ってことね」

 意味のわからないことを言いながら、篤子は苗の茎をそっと持ち上げ、根に絡みついた土もろとも苗を移していく。土の入ったポッドに慎重に苗を据えると、周りの土を寄せ、指で表面を均していく。


「葉月もやってみる?」

 探るような視線を感じても、葉月は篤子の手元から目を離さず、「いいよ。今日は手伝いで来てるんだし」とだけ言った。篤子は「釣れないんだから」と小さく喉を鳴らして不満を露わにしながら、止めていた手を動かし、次の苗の植え替えに移った。

「やってみれば?」


 後ろから急に声をかけられ、葉月は慌てて振り返った。稔が中腰になり、葉月と篤子の間から作業の様子を眺めていた。

「いえ、大丈夫です」

 特段の理由もなく、葉月は首を横に振った。

「楽しいのに」

「土に触れるのもいいよ。コーヒーと同じように繊細で、コーヒーとは違って時間がかかる」


「CMみたいですね」

 葉月は、小さい頃に住宅メーカーのコマーシャルで聞いたコピーを思い出した。静岡のコマーシャルは印象的なものが多い。浜松に帰って久しぶりに観たテレビからは、懐かしいセリフやCMソングが流れていて、それが執拗に郷愁を煽った。稔も、それがどのCMを指しているのかすぐにわかったようで、コピーを諳んじたあと、言葉を続けた。


「もちろんこうした一日の積み重ねなんだけど、やっぱりスパンの違うものを扱うのは面白いよ」

 稔の言葉が頭の中を舞う。葉月は小さく頷いた。篤子がふっと笑い、ポッドを寄越した。


「葉月ってこういうの苦手そうだけど、大丈夫け?」

「それ、今言う?」

 脱力感を覚える一方で、戸惑いと不安がふわりと軽くなるのを感じた。連結ポッドに植えられた苗を慎重に摘み、ゆっくりと引き上げる。土を抱え込んだ根が血管のように浮き出ていた。篤子の手からポッドを受け取って、窪みのついた土の真ん中に差し込む。途中、根が解けてしまった時は焦ったが、どうにか土を被せ、稔に言われた通り、優しく押し込んだ。


「うまくいったじゃない」

「ちょっと崩れたけど、これでいいのかな」

「新しい土に馴染めば大丈夫。問題ないよ」

 そうして助言をもらいながら、作業は進み、時間は穏やかに過ぎていった。


 葉月は篤子の作業を見守りながら、気づけば稔の動きを目で追っていた。何か仕事はないかと観察するのが五割、ただ稔を見ていたいという気持ちが五割といった具合だった。とはいえ、やはり作業自体が単調なためか、参加者は互いに喋りながらも黙々と手を動かしていて、いつしか稔や檜山の出番も少なくなっていた。暇を弄んだ葉月は結局篤子の隣に座るしかなく、ハウスの隅に転がっていた、車輪のついた腰掛けに体を預けると、篤子の手元に視線を落とした。


「二週間くらいでこれだけ育つんだから、植物ってすごいわね」

「そうだね、食べられちゃうけど」

「そりゃそうだら。命はそうやって巡っていくんだから」

 篤子の言いようはまるで子供の疑問を煙に巻く大人のそれだった。食物連鎖という網の目のような自然の摂理から距離を置く人間は、それでも自然との関わりを完全に断ち切ることはできなかった。第一次産業はその営みの中で自然と対話し、命のやり取りをするところだ。稔の生業であるサービス業とは全く違う仕事のありようが、そこにはあるような気がした。


「これが最後のひとつだけど、またやってみる?」

 ぼんやりと苗を眺めていた葉月の肩を篤子が叩いた。小首を傾げてこちらを覗き込む母の目を一瞥した葉月は、「いいってば」とだけ答え、立ち上がった。

「そろそろ畑の準備をしなきゃ」

 苗の植え替えのあと、参加者は畑作りをすることになっていた。トマトとナスを畑に植えるのは再来週以降らしいが、その前にやる大切な作業らしい。


「あら、じゃああとでね」

「うん」

 篤子の後ろからハウスの中を通り、「私、行ってきます」と稔に声をかける。

「よろしくね」

 稔の気安い返事に葉月は頷き、そのままハウスを出た。太陽はすっかり空の高いところに移り、昼が近づいていることを葉月に教えた。小さく地面に映る自分の影をちらりと見て、葉月は畑に向かった。


 緑色のポールが立つ区画のそばに、朝にはなかった農具が並んでいた。檜山が持ってきた鍬だ。そのどれもが使い古され、持ち手の部分は表面が黒ずんでいた。先端に穿たれた楔も柄を咥え込んだ鍬も、表面にはサビが浮いていたが、刃先の部分はよく磨かれていて、自身が未だ現役であることを訴えていた。葉月は鍬を畑の畝の突端に一本ずつ置き、今朝運んできたプラスチックケースをその隣に配置した。


 やることがあればそれだけで気が紛れる。さっきまで胸の中を占領していた疎外感も、すっかり鳴りを潜めていた。仕事があるということは、それだけで自分の存在を認めることができる。

 そうこうしているうちに稔たちの声が聞こえてきた。

「準備は大丈夫そうだね」


 稔が葉月の横に立ち、畑を前にして言った。参加者が手に手に葉月の準備した鍬を携え、畑に入っていく。

「それではさっき説明した通り、土作りを始めます」

 檜山の号令がかかり、「はーい」と喧しい返事が畑に響いた。畑を作ると言っても、それはもちろん文字通りの意味ではない。土を耕し、空気と養分を満遍なく行き渡らせるのがその目的で、苗を受け入れる準備をするのだ。その頃には茎が伸び、花の芽もできるほどだというのだから、植物の成長は早い。


 篤子の意外と堂に入った鍬さばきに感嘆し、生徒に呼ばれれば畑に入る稔や檜山を目で追いかけ、そうこうしているうちに作業は終わりを迎えた。

 畑は朝とは全く違う表情をしていた。掘り起こされた土は湿気を帯び、新鮮な黄土色を呈していた。檜山がホースを持ってきてそこに水を撒くと、畑の表面がクシュッと沈み込み、水に濡れた土が畑の畝を一層引き立てた。


「楽しかったら?」

 不意に篤子に話しかけられ、葉月は少し宙を仰いだ。

「どうかな。仕事だし」

「素直じゃないのね」篤子はふふっと笑い、舞い降りる水に目を向けたまま、「でも安心した」と言った。


 すぐにはその言葉の意味を計れず、葉月はちらりと篤子の顔を盗み見た。

「ちゃんと笑えるようになったんだって、お父さんにもいい報告ができそう」

「何それ。私は……」気色ばみ、言い返そうとした言葉が胸からするりと解けていく。ただ自分を言い当てられた羞恥心に、葉月は続く言葉を失った。やはり篤子には敵わないと思う間に、篤子は「それにしても、いい天気になってよかった」と腕を伸ばしていた。


「本当」

 言葉以上の気持ちが動き、葉月は滲んだ視界に空を映した。全く、太陽の鮮烈な光は空を青く染め、水を清く豊かにする。この太陽に支えられる自然とともにあるこの場所が、葉月は少しだけ好きになった。

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