第15話

 繁華街を貫く幹線道路とあっては、車の往来も激しい。黒い艶やかな車体を翻して交差点を横切っていく車のヘッドライトに、目の奥が痛みを訴える。新宿三丁目の交差点に立ち、二十歳を目前にした葉月は、熟れた果実のようなテールライトを見送りながら、交差点の喧騒に意識を戻した。

 大学の規模やレベルの如何に関わらず、サークルの飲み会というものは節操を失った若者のるつぼだ。未成年者への飲酒を強要しないだけまだましだとも思うが、毎月のようにやってくる誰かの二十歳の誕生日に「成人式」と称して行われる宴の悲惨さを目の当たりにするたび、自身に迫り来るその日がどのようなものになるのか、葉月は毎回想像していた。


 その日ターゲットになったのは法学部の足立という男子学生だった。フレームの細いメガネでスマートさを演出していた彼は、今やその精細さを完全に失い、酔いつぶれて幹事長に肩を抱かれていた。

「足立くん、今日は随分と飲まされたね」後ろから振りかけられた声に、葉月は頷きながら振り返った。大学時代、こうしてサークル活動という名の飲み会に嫌々ながらも参加していたのは、この木下留美に因るところが大きかった。一足先に二十歳の誕生日を迎えた彼女の「成人式」でもあるその日、留美はどれだけ酒を注がれても顔色ひとつ変えることはなく、それが足立の酩酊を生んだ遠因でもあるのだが、留美は涼しい顔のまま傍観者を決め込んでいた。


「留美が強すぎるからだよ」

 葉月の指摘に留美は舌を出し、「葉月嬢には敵いませんがな」と笑顔を向けた。

「それは言わないでよ。一応、か弱いキャラで通っているのに」

 湖の底に潜む不安を悟られないためには、強くなるか弱くなるか、そのどちらかしかない。葉月が後者を選択したことに、留美は気づいている様子だった。

「男どもは気楽でいいよ。ああして飲んで騒いで寝て、それだけでいいんだからさ」


「一度でいいから代わってもらいたいっていうのはあるかも」

 化粧を落とし、風呂から上がれば髪の手入れもしなければいけない。スキンケアも不可欠とあれば深酒をする気にもなれない。それが普通だった。あの夜は例外なのだ、と葉月は内心に付け加えた。

「そうでしょ。生理の時もだし、する時もだし。男はいつだって勝手」

「別れたって噂は本当だったんだ」


 葉月は足立を支える幹事長の葛西を視界に入れた。二人の交際は公然の秘密とされ、サークルの誰もそのことを取り立てて話題にすることはなかった。葛西も留美も、サークル活動中は互いの空気に干渉することはほとんどなく、息の長い付き合い方をしているのだと思っていたのだが。どうやらその二人の間に亀裂が生まれたという話を聞いた時は、現実は甘くない、という言葉が脳裏をよぎった。


「別れたなら一を、そうでないなら二を、その他のお問い合わせは三を押してください」

 何も言わない留美に現実の重さを突きつけられているようで、つい茶化すようなことを言ってしまう。目を丸くした留美が、一呼吸置いて悲しそうに笑った。

「三で」信号待ちの列に視線を移し、そう呟いた留美の瞳に、新宿の夜景が映る。「葉月も意外とそういう話好きなんだね。彼氏持ちの余裕?」


 仕返しとばかりに留美が繰り出した不意打ちが、恥ずかしさを蘇らせた。あの夜のことが再び頭を掠め、意識しまいと思っていた熱が胸に灯るのを感じた葉月は、無言を答えにした。

「いいけどね。別れたわけじゃないよ。その噂を流したのも私だし」

「何それ?」


 すぐにはその真意がわからず、一点を見つめて動かない留美の視線を追った。

「うまくいかないよね。暖簾に腕押しって感じ? 今日ならいいって思ってるのに」

 今ならば、留美の見ていたその夜の色がわかる。何もかもを吸い込むような底なしの暗闇の下で、留美が思っていたこと。葛西とのギクシャクした空気を受け流そうと必死にもがく後ろ姿を、その時の葉月はぼんやりと見ることしかできなかった。


「来週のどこかで買い物でも行こうよ。今日の憂さ晴らし」

「それより、仲直りした方がいいんじゃないの?」

「私はそんなに優しくないの」

 信号が変わり、歩き出す列に加わる。留美はするすると葛西に近づき、何事か話始める。しきりに頷く葛西は、足立の肩を抱き直し、横断歩道から新宿通りを進んでいった。留美もそのまま行くのかと思えば、信号機のたもとで立ち止まり、葉月を待ってくれた。


「一緒に行かないの?」

「今日は足立くんを送って行くってさ。帰ろ」

「いいの?」

「いいも悪いも、あれで幹事長だから、責任ってもんがあるだろうし。男って面倒臭い」

「……そうだね」


 不機嫌そうに言う留美に、葉月は調子を合わせた。結局、男も女も、どちらも互いを理解できる日など来ないし、それでいいのかもしれない。

「言いたいことがあるならちゃんと言いなさいよ」

 そうして突っかかってくるのも、胸の中にある気まずさや恥ずかしさを紛らわすためだろう。通りをかすめるライトが僅かに赤くなった留美の顔を照らす。


「何もないよ。葛西さんも大変だなって思っただけ」

「私の心配はしてくれないの?」

 二人で笑いながら、交差点のそばにある入り口から地下に潜る。階段から吹き上がってくる風は湿っぽく、雨の匂いがした。





 ざっと水たまりを切り裂く音に視線を上げた葉月は、過去から意識を引き戻した。余韻が、遠ざかるテールライトのように尾を引いていた。唐突に去来したその記憶は、普段なら思い出すこともない、何気ない思い出に違いなかった。サークルにはそれからも卒業するまで入り浸っていたし、留美との関係は社会人になってからも続いていた。テレビ番組の制作会社に勤めた留美は、今でも光を追いかけ、それを映像に焼き付けている。さすがに葛西とは別れていたが、それも時間がただそうさせただけだ。

 浜松に帰ってきてから、過去の記憶がたびたび湖を満たすのは、一体どうしてだろう。沙也加とのこと、和樹とのこと、留美とのこと。あまりにも具体的でそれでいて曖昧な空気は、確かに葉月が過ごした時間の集合であり断片だった。そのくせ、そう感じるたびに葉月は強い喪失感にも見舞われた。まるで、過去を思い出すことで忘れている何かを探しているような感覚だ。一体何を——。それ以上の思考は働かず、葉月は肩にかかったバッグを掛け直した。


 稔の店を出てから幾ばくか、葉月は記憶と現実の間を行き来し、朝から変わらぬ雨脚を避けるように路地を歩いた。

 梅雨の時期は憂鬱だった。雨に濡れるのが嫌いということもあったが、厚く空を覆う雲の下にいると、自分もそれに押しつぶされてしまうのではないかという恐怖が全身を覆うのだ。その感覚は高校生の頃から顕著になり、葉月は毎年、六月から七月にかけて気持ちが不安定になる。恐怖にもがくだけだった日々にあって、体に絡みつくような雨は、いつしか葉月を飲み込むほどの倦んだ瀑布となって心に注ぎ込むようになった。それはまるで心に巣食う獣だった。葉月の不安を餌にして成長する獣。その咆哮が聞こえた気がして、空寒さに身震いした葉月は、傘を持つ手に力を込めた。


 細い路地を走る車が雨をかき回し、細かな水滴を霧のように撒き散らしていく。傘を差していても首元にまとわりつく不快感を拭い去ることはできず、我知らず視線を上げた葉月を、街灯の光を反射したアスファルトが受け止めた。夜の陰影を映すその先に駅の高架が見え、湿った靴を静々と踏み出した。

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