第16話

 駅といってもそこは地方の私鉄、しかも単線路線の通過駅とあっては、駅舎もとってつけたような代物でしかない。歩道橋のような階段を登ると、向こう側へ続く通路の途中に駅舎が据え付けられている。傘についた水滴を払いながら自動ドアをくぐった葉月は、改札の手前にある端末にパスケースをかざし、下りのホームへ向かう。つい数年前に地上駅から高架駅へと姿を変えたその駅を、葉月はほとんど利用したことがなかった。だから高架駅に生まれ変わったことへの感慨はないに等しく、ホームで電車を待っていても、特に何かがあるわけでもない。


 ホームにアナウンスが入り、列車の接近を知らせる。これがあるだけまだマシだとも思える。葉月の家の最寄駅は、地上駅でしかも無人駅、列車の接近は近くの踏切の音だけが頼りの徹底ぶりだ。ひっきりなしに列車がやってくる東京のターミナル駅とは流れている時間が違う。


 二両編成の車両が目の前で止まり、扉が開く。葉月は雨を避けるように、足早に車内に踏み込んだ。後方車両のさらに後ろ、運転台の近くに立ち、つり革を掴む。

 小気味好い音を立てて進む列車は、この駅を最後に地上に下りていく。すうっと視界が下がる感覚が面白い。東京にいた時はスマートフォンを眺める以外することがなかったのに、どうしてか葉月はこの電車に乗るようになってからそうして外を眺めることが多くなった。どこまで行っても光に溢れていた東京では感じたことがない想いに駆られ、ひたすら窓の向こうを眺め、そこに広がる風景から何かを得ようとしていた。


 窓に映る自分の後ろを通る影に視線が移る。車掌だ。無人駅の多いこの路線では、車掌が客から切符を受け取ることもある。駅によって異なる改札口を目指し、列車の中を行ったり来たりするのだ。そろそろと減速する間に、後ろに回った車掌は運転室に入り、ドア窓から外を伺う。駅に着くと、ドアを開け、客から切符を受け取り、またIC乗車券のタッチを確認し、全員の乗降を見送ってドアを閉め、運転手に発車の合図を送る。


 鉄道の運行というのはその繰り返しだ。喫茶店と変わらない営みがこのわずかな時間にもあるのだと葉月はいつも感じていた。そういう意味では、どこで何をしようとも、大きく変わるものではない、というのも事実かもしれない。


 高速道路の高架下を潜ったあたりで、外の景色に変化が生じる。すうっと民家の明かりが遠ざかるのだ。明るければそこには田んぼや畑が広がっているはずで、光を失った農地を思い浮かべると、どうしても稔の姿が脳裏をよぎるのだ。


 あの農業教室以降、葉月はそれが開催されるたびに長靴を履き、控えめに見ても野暮ったいウインドブレイカーを羽織って畑に入った。篤子がその場にいるのがやはり恥ずかしかったが、苗の植え替えや黒いビニール袋の敷設——マルチというそれは、畑を冷害から防ぐためのものらしい——など作業の幅は広く、葉月は畑とハウスと事務所を回り、目まぐるしく働いた。アルバイト代はあまり出せないと言っていた割に、半日程度の拘束時間にも関わらず受け取った金額は通常の喫茶店勤務と同額だった。


「檜山さんからのお小遣いだと思って」

 稔は簡単に言うが、葉月はかえって恐縮してしまった。それに見合う仕事ができているかどうかはともかく、稔のためにも力を抜くことはできなかった。

 車窓を流れる街灯の明かりがつかの間の回想を打ち破り、自分の姿が窓に映るのが見えた。色彩を失った影のようなその姿は、自分そのものだ。そうやって卑屈になることで自分を慰めてきた。何をしていても同じ。ならば、やはり本の仕事がしたかった、と葉月は認めた。


 稔に出会ったことで忘れかけていた夢、それが頭をもたげる。雑誌編集の仕事など、具体的なことはもちろんわからない。新卒採用時の希望など、所詮はこんなことがしてみたい、という願望に過ぎないのだ。それでも、それが叶わず、路頭に迷い、今に至る。浜松に戻った時に感じた不甲斐なさは、結局こうして敗走するだけの人生を悲観してのものだろう。


 列車が減速する気配がして、葉月はつり革を持つ手に力を込めた。何かにすがっていないと、自分が自分でなくなってしまいそうだった。駅名を告げるアナウンスが入り、ゆっくりとドアまで移動する。島式ホームの右側で停車した電車は、やはり対向する上り列車を待つため少しの間停車する。葉月はその間に、ホーム上の読み取り機にIC乗車券をタッチし、車掌の脇をすり抜けて駅舎へと降りた。


 家までの道は、雨の音を聞きながら歩いた。降りしきる雨に身を委ねていると、これまで頭をもたげてきた雑多な後悔がその身に押し寄せてくる。拭おうとして果たせず、ただ泉の底に沈めることしかできなかったその想いは、自分がその湖底に定位することで、さらに硬化していった。


 和樹とのこと、就職活動のこと、社会人としての三年間、そのどれもが、葉月には苦悩と後悔の連続だった。初めて出会う感情に我を忘れ、夢を夢と諦め、現実に打ちひしがれた七年という歳月。その集大成としての今は、葉月の理想とはあまりにもかけ離れた場所にあった。


 もし稔と出会っていなければ、自分はどうなっていたのだろう。笑うことを忘れ、不甲斐ない自分と向き合ったまま、死んだように生きる日々だろうということは容易に想像できた。稔との出会いが、夢とは違う場所の存在を認めさせたのも事実だった。


 夢と現実の狭間、今はまさにその隙間が葉月を羽交い締めにしていた。自分でも扱いきれないほどに揺れ動く振り子の球が感情を乱している。ついさっき、夢を夢と諦めたことを嘆いていたのに、稔のことを考えた途端、この現実を手に入れたいと思う自分もいるのだ。


 仕事と割り切るにはすでに踏み込み過ぎた感情が葉月を不意に高揚させる。子供染みた淡い想いは、いつしか明確な好意へと変わっていた。恋に恋する十代を過ぎ、恋に焦がれる二十代を迎え、そして和樹と別れた時には、恋に媚を売るのをやめようと思っていたのに。


 果てしない自問自答も、家の玄関が目前に迫ると急に静かになる。バトンタッチするように、葉月の胃袋が食事はまだかと騒ぎ立てる。ドアを開けるまでは、そんな自分の変わり身の早さに呆れるだけの余裕があった。


「ただいま」と呟いて一歩沓脱ぎに踏み込んだ葉月の目に、寝間着姿の克則の背中が飛び込んできた。ぴくりと体を震わせて振り向いたその顔を仰いだ葉月は、胸に鬱屈とした冷ややかな寂寞を覚えた。


「遅かったな」

「いいでしょ、別に」

 油断していた。雨と過去に気を取られ、克則が帰っている時間だということを失念していた。普段より二時間ほど遅い帰宅になったのは、喫茶店の営業が終わったあと、稔に頼んでコーヒーの淹れ方を教わっていたからだ。


 まっすぐに注がれるお湯と、フィルターを通り抜けたあとの琥珀色の液体。その二つを交互に見ながら、膨よかに広がる香ばしい空気に満たされていた。すぐ近くに感じる稔の熱が、葉月の胸の湖を温めていた。帰り道であれほど過去が浮かび上がったのも、攪拌され抽出されるコーヒーが、葉月の心に染み付いた澱までも溶かし出してしまったからなのかもしれない。


「いつまで、あんなところで働いているつもりだ」

 普段より遅くなっただけ遭遇する危険性は上がっていた。克則が快く思っていないことくらいは承知しているつもりだったが、ありふれたその言葉は、しかし承服することも受け入れることもできなかった。


「何をしようと私の勝手でしょ」

「その歳で定職にも就かずにふらふらとして、恥ずかしくないのか」

 克則の言葉を背中に、階段を駆け上がった。「まだ話は……!」

 自分を見失った葉月を迎えてくれた稔のことさえ、克則は認めていないのだ。そう考えると、悔しさがこみ上げてきた。自室のドアを閉めた途端に溢れ始めた涙を拭うことさえ億劫になり、葉月は乱暴に体をベッドに沈めた。

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