第17話

 翌朝は普段にも増して布団から出たくなかった。ただでさえアルバイトが休みで稔と会えない寂寥を抱えているのに、克則との衝突が葉月の頭を重くし、起き上がることも困難にさせていた。

 枕元に投げ出したままのスマートフォンを取り上げる。霞んだ目に午前十時十分という時刻が映った。


 スマートフォンを眺めているだけで過ぎていく時間はひどく遅く感じた。このまま今日という日が終わらないのではないか、そんな恐怖が葉月を覆う。掛け布団を頭まですっぽりと被り、目を閉じる。稔の笑顔、克則の侮蔑、二つの顔が交互に葉月を睥睨する。救済と後悔の鎖に絡め取られ、身動きが取れない。何もかもを失った自分に、これ以上何ができるというのだろう。深く息を吸えば吸うほどに苦しくなる胸を抱き、葉月は布団の裾を強く握った。


 どのくらいそうしていただろう。ドアがノックされ、葉月は布団の隙間から頭を覗かせた。

「起きてる?」

 慎重さを滲ませた篤子の声だ。わずかな隙間から窺うような視線を感じる。

「うん」

「何か食べる?」

「いらない」


 まるで子供だ、と呆れる。篤子は何も悪くないのに、自分の都合ばかりを優先させてわがままを言っている。そのくらいは自分でもわかっていた。

 カーテン越しに伝わる雨の気配にひやりと体が硬くなる。油断をすればすぐに暗い湖の底に逃げてしまう自分。雨を言い訳にして都合の悪いことを全て受け流していた自分。克則でなくても、一体東京で何をしてきたのかと問いただしたくなる。


 篤子はそれ以上何も言わなかった。気づけばドアは閉じられ、篤子の気配は消えていた。

 後悔ばかりが募り、積み重なった罪悪感が胸を圧迫する。刹那的に沸き起こる情動が湖を黒く染めていく。気を紛らせたくて、葉月はベッドから起き上がった。靄がかかったように霞む視界で、葉月は無意識にあの作家の文庫本を求めた。


 本を掴み取り、適当にページを開く。さすがに途中からでも話の内容は把握できる。ちょうど、主人公が研究室の教授と打ち合わせをしているところだった。話は脱線し、主人公の父親の話になる。小説ではよくあることだが、主人公の父親と大学教授は学生時代の友人で、ついでにいえばその母親とアルバイト先のカフェの店主も友人同士だった。


 娘と父親の距離感は、小説とはいえうまく表現されていた。高校生の頃は毛嫌いしていた父親のことを、いつからか受け入れられるようになって、自然と会話もできるようになる。

 自分と克則も、確かに大学生になってからはそんな関係だった。自分にも夢があり、克則も応援してくれた。小説の主人公と、文理の違いはあっても同じようなものだった。文字の中の彼女は様々な経験を通じて成長し、母親を失った現実を受け入れようとしているのに、どうして自分には、それができなかったのだろう。


「そうか」希望の職に就けないことが決定的となった頃、葉月は一度だけ克則と会話する機会があった。篤子に電話をかけたがどうやら携帯を携帯しておらず、近くにいた克則が代わりに出たのだ。

「うん。なんかごめん」

「なんでもいい、とは言えないが、納得していようが後悔していようが、それを葉月が決めたのなら、それでいい」


 克則はそれだけ言うと、電話を切ってしまった。てっきり篤子に電話を渡すまでの繋ぎだと思っていたのに、その一方的な話し方が克則らしかった。

 見透かされていた部分はあったのだろう。葉月が納得していないことも、後悔を抱えていることも。


 自分の未来に対して、取り返しのつかない失敗をした。それは目標に向かって積み重ねてきた努力がすっかり無駄になった瞬間でもあった。大学のテストで落第点を取ったのとはわけが違う。単位は他の授業でいくらでもカバーできるが、夢は他のどんなことも代わりにはなり得ない。


 人生を喪失した葉月に、克則の言葉は深く刺さった。挫折も後悔も全て引き受けて生きていく覚悟を求められているような気がした。

 克則が何に怒っているのか、それはただ自分が安穏とフリーター生活をしているからではないだろう。わかっていても、それでもどうすることもできない。今更大学生に戻ることはできないし、雑誌編集の道に進むこともできない。


 真っ暗な湖の底で、轟々と音がする。滝壺が渦を巻き、葉月の眼前まで迫っていた。体を僅かに浮かせ、暴威をやり過ごす。現実から目を背けることは容易い。何も考えなければいい。思考に蓋をして、ただただ、目の前の活字を眺めていればいいのだ。


 ページを捲る。舞台はサナエがアルバイトをするカフェに変わる。コーヒーの香りに満たされた空間が縦横に広がり、登場人物はのびのびとしている。恋人に本当のことを話せずに鬱屈した主人公もそこに居場所を得ているようで、店主の作るコーヒーに宿る不思議な力によって、運命の糸を手繰り寄せていく描写へと繋がっていく。


 静岡県民の誇りか、実家では日本茶を飲む機会が圧倒的に多く、稔の働いていた喫茶店以外でコーヒーを飲んだことはなかった。東京に出てきてこの本と出会うまでは、関心がなかったと言った方が正しい。そういう意味では、この本との邂逅は葉月を変えたひとつのきっかけだった。


 学生時代に読んだ時は、ストーリーやサナエの感情に共感し、まっすぐに伸びやかに生きる姿に感化されていた。コーヒーを飲むようになり、喫茶店やカフェに通うようになった。住んでいた笹塚にはいくつか馴染みの店ができて、そこで過ごす時間は、大学やアルバイトでは得られない落ち着きに溢れていた。


 コーヒーが飲みたい、強くそう思った。

 文庫本を棚にしまう。代わりに机の上のスマートフォンを見ると、時刻は午前十一時だった。恐る恐る部屋を出て、一階に降りる。リビングの扉を静かに開ける。この時間、篤子はよくソファーで寝ている。予想通り、体を横にして寝息を立てていた。


 抜き足差し足忍び足、足音を立てないように自室に戻り着替える。階段を降りながら篤子にメッセージを送る。昼食はいらない。夕方には帰る。

 スニーカーを履き、傘立てから伸びた柄を掴む。

 昨夜を逆向きにトレースするように、葉月は駅へ歩き、電車に乗った。紫色のロングシートに腰掛ける。雨に濡れた田畑の脇を列車は進んだ。


 減速し、途中の駅で停まる。数人の乗客が降り、そして入れ替わるように乗り込んでくる。どの人にもいくべき場所があり、希望があるのだろう。ふと胸に舞い降りたその想いは、そのまま自分に跳ね返ってくる。コーヒーが飲みたくて稔の店に行く、そう思っていたが、本当は逆だ。稔に会いたい。ただ痛切に、稔に会いたかった。


 再び発進し、橋を渡るとすぐに高架になる。景色が移り、車窓から見えるのは架線柱の列が均等に飛び退く姿だけになった。線路の継ぎ目で車輪がカタカタと鳴る。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、全てが葉月を囃し立てるように囁き合っている。


 克則の声を借りたそれらが、口々に言う。何しに行くつもりだ。身の上相談をして、距離を縮めたいのか。そんな下心はすぐに見抜かれるぞ。

 葉月は言い返すことができなかった。

 湖の底にまで響く声が葉月の意識をかき乱していく。見る間に濁り淀んでいく水の中で、葉月は声にならない感情を爆発させた。ではどうすればいいのだ。願いを、夢を、全てを失って、その上、この感情まで失えと言うのか。

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