第18話

 停車駅を告げるアナウンスがかろうじて耳に入り、葉月は立ち上がった。危うく、やり場のない怒りに自分自身をも絡め取られるところだった。ドアが開き、ホームへ足をつける。傘を握る手に力を込めて、階段を慎重に降りた。


 駅舎を出て右に曲がる。影に何を言われようと、稔の店に行くのだ。幹線道路から直交するように伸びた住宅街を抜け、ショッピングセンターのある交差点まで進む。傘を打つ雨の振動が腕に伝わり、雨音とシンクロする。一歩ずつ喫茶店が近づき、そのことを意識するたびに葉月の胸は高鳴る。


 愚かなことだ、と再び影が囁き始める。心臓の脇をすり抜けて、深く葉月の内側に達した影が執拗に葉月を責め立てる。漂う影を虚ろに見ながら、葉月はその声を聞いた。


 声音を次々と変えながら、影が葉月のあとを追いかけてくる。電車の中では克則の声だったものが、いつの間にか葉月自身の声に変わっていた。稔を求めているのも、そんな葉月を嘲笑っているのも、総じて自分自身なのだ。それでも葉月の歩みは止まらなかった。交差点を渡り、喫茶店の前に立つ。扉のガラスに映る自分の姿を一瞥し、葉月はノブに手をかけた。


 からんと扉の鈴が鳴る。

「いらっしゃいませ、って山瀬さん」

 カウンターの奥から姿を見せた稔が、驚いた顔を向ける。視線がぶつかり、葉月は表情が見つからないまま、ぺこりと頭を下げた。

「お疲れ様です」

「忘れ物?」

「いえ……、コーヒーが飲みたくて」


 顔を上げたところで問いかけられ、葉月は本音を飲み込み、僅かに目を伏せた。

「そっか、どうしようかな」

 稔が店内を見渡し、葉月もホールに視線を彷徨わせる。昼時を前に、店内は混雑していた。いつも賄いを食べるカウンターも埋まっていて、空いているテーブルは見当たらない。

「相席でもいい?」


 葉月に断りを入れてから、稔が窓際の四人テーブルに座る女性に声をかけた。背中をこちらに向けたまま、栗色のショートカットが僅かに縦に揺れる。

 稔が手を広げて合図を寄越した。稔の手前、贅沢は言えない。葉月は通路を進み、テーブルの奥に腰掛ける。顔を傾けたその女性を一目見て、葉月は自分の間の悪さを呪った。


「沙也加」

 反射的に口を突いた名前に、こちらを向いた沙也加の顔が重なる。

「葉月……? 久しぶり」

 高校を卒業し、七年余り。過ぎた歳月を埋めるには、その言葉だけでは足りない。

「久しぶり」


 けれど、自分もそれ以外の言葉を見つけることはできなかった。

 水を持ってきた稔に「アイスコーヒーをください」とだけ言って、葉月はコップに口をつけた。

 開いていた文庫本を閉じ、沙也加がぎこちない笑顔を浮かべる。葉月はそれにさえ、どんな表情で応えていいのかわからなかった。あれだけ高校時代をともに過ごしていたのに、大学生になった途端、急速に疎遠になってしまったかつての親友は、猫背のまま上目遣いで葉月を見つめた。その瞳に光が宿る。


「戻ってきたの?」

「うん。四月から」

 そうやって答えながら、葉月の視線は自然と沙也加の左手に向かう。意識しないように目を閉じるのもわざとらしく、凝視する格好になってしまう。沙也加の目から逃れようとする口実のようで、葉月は呆然としてしまう。

 さすがに気づいたのか、沙也加は右の掌で左の薬指をそっと覆った。


「まだ式は挙げてないんだけどね。半年くらい経つかな」

「……おめでと」

 条件反射的に発せられた言葉は、無色だった。沙也加に素直になれない。無色の言葉だけが宙を舞い、沙也加の前に置かれた文庫本の上に落ちた。

 剥き身の表紙に書かれたタイトルに目が留まる。


「その本……」

「最近読み始めたんだ。知ってる?」

「うん。ちょうど私も読んでるところ」

「初日の出を見に行くところがいいよね」


 その場面は、葉月も気に入っている。東京に実在する海浜公園で、東京湾の向こうから朝日が昇り、そこで主人公と恋人がキスをする場面だ。『日の出を待ちきれない空がオレンジ色に鈍く輝き始めた。ぼんやりとした光が徐々にその範囲を広げ、空の明るさを追いかけるように、遥か彼方の海面も赤みを増していく』そうして空や海の様子を描写していたかと思えば、『日の出の瞬間はよくわからなかった。急にコウタがサナエを引き寄せ、キスをした。コウタの体温が唇を伝わってくる』と続く。


「あんなの、小説じゃないとありえないけどね」

 内容を思い出し、葉月は素直な感想を述べた。現実には、そんな度胸のある男はいない。

「私なら、その場で張り倒してるかもしれないけど」

「沙也加ならやりかねない」

「なんか懐かしいね、こういうの」

「そうだね」


 そこで言葉を切るからしんみりした雰囲気になるのだが、わかっていても続く言葉が見つからない。同意と共感、そして承認を繰り返す会話のループは、あの頃なら無限に続けることもできたのに、もうその感覚は失われてしまった。

「アイスコーヒー、お待たせ」

 いつの間にか稔がテーブルの脇まで来ていて、深い色をしたコーヒーを葉月の手元に置いていく。

「ありがとうございます」


 軽く頭を下げる。目を前に向けると、沙也加の意地悪い視線とぶつかった。

「葉月は昔から変わらないね」

 見透かすような視線に、葉月は思わず視線を外す。

「どうせ、私は独りぼっちですよ」

 否定することもできず、かといって正面から認めることもできない本心を、精一杯の虚勢で隠す。

「人はそれを当てつけと言う」

「そうだっけ」


 とぼける葉月を見て、沙也加がふっとはにかむ。瞼に薄く塗られたアイシャドウが陰影を作り、笑顔の向こう側で何かが揺れめく気配を感じた。

「羨ましい」

 思いがけない言葉に、葉月は首をかしげる。沙也加が自分に何を感じたのか、そういう話はしたことがなかった。黙っていると、沙也加が話を続けた。

「そうやって、いつまでも自分にまっすぐな誰かさんが」


「そんなんじゃない。私は、いつだって迷って、戸惑って、後悔して、挫折して、その繰り返しで……」

「それでも、葉月は今ここにいる。それってすごいことだと思う。今日だって、せっかく葉月がいない日を見計らって来たのに」

「知ってたんだ」


 憂いを湛えた目が瞬かれ、沙也加が同意する。東京からも過去からも逃げようとして、結局は逃げ切れない。逃げられないのならば、今の沙也加と向き合うしかない。逃亡生活の終わりを告げるのが沙也加というのは、どこか物語じみている。

「沙也加は仕事何しているの?」

「スクールカウンセラー。高校生の悩み相談、みたいな」

「平日なのに休みなの?」


「今日は土曜日の振替。これでも結構大変なんだから」

「学校をいくつも掛け持ちしたりとか?」

「そんな感じ。曜日である程度固定されててさ。一応、うちらの高校も担当してるんだ」

「そうなんだ。高校とか懐かしい」


「全然変わってないよ。高校の先生ってあんまり異動しないのかな」

「鈴木先生とか、高林先生とか」

「うん、まだいるよ。鈴木先生は猫背のままだし、高林先生はいよいよ真っ白になったね」

「それは想像できる」


「でしょ」それまで、葉月と手元のコーヒーを交互に見ていた沙也加が、不意に顔を窓の外に向けた。その視線の先を想像しているうちに、「あの時、さ……」と沙也加が戸惑いがちに口を開いた。

「あの時……?」


 沙也加の指す「あの時」に心当たりがないわけではない。むしろ、一体どれを指しているのか、葉月は沙也加の言葉の続きを待った。

「あの時、この場所でこうして再会するとは思ってなかった。絶対、賭けに勝てるって思ってた」

「沙也加、本気だったんだ」

「だった、だったねえ。卒業式の日、覚えてる?」

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