第19話

 話が進むにつれて、沙也加と過ごした景色が徐々に鮮明になっていく。逃げることも忘れることもできない過去が、沙也加の寂しさを湛えた目が、眼前に迫る。

 ちらりと目だけを動かし、稔の姿を探す。ちょうど別の客から注文を受けたようで、カウンターの奥でコーヒーを淹れていた。こちらの声が聞こえることもないだろう。


「うん。告白するって意気込んでいたのに。あの日も、確かこの席だよね」

「そうそう、いつもこの席だった。全然言い出せなくて。でもね、実は次の日にひとりでここに来たんだ」

「そうだったの?」つい大きく口を突いた声に、首をすぼませる。沙也加は驚くでも慌てるでもなく、柔らかく微笑んだままだ。


「うん。葉月を出し抜こうと思ってた」

「……そっか」

「でもダメだった。結局振られちゃって。あれは無謀だった」苦笑いを浮かべる沙也加に、葉月はかけるべき言葉が見つからなかった。どこまでも高校生の頃から変わらない、掴みどころのない旧友は、「しかも葉月に連絡するのも気まずくなって。勝手に思い込んで……」そうやって倦んだ瞳を外に預け、ひとつため息をついた。


 葉月は、沙也加の中に巣食う獣の気配を感じた。誰しも、そうやって自分ではどうしようもない煩悶や葛藤を抱えている。あの時、一番身近にいた沙也加のことさえ、葉月は少しも理解していなかった。

 沙也加と重なっていた時間と、すれ違っていた時間、そのどちらも引き受ける覚悟が必要だった。それがわかっていても、その気概を持ち合わせていないことに、葉月は悄然となった。


「もっといい人に巡り合ったってことでしょ?」

 もっともらしいことでお茶を濁す。こちらの気配を察したのか、沙也加は葉月を見遣り、小さく首を横に振った。

「そういうのは、やっぱり文学少女的だよ。現実はさ、そうじゃないんだ。私のそばにいてくれる人は、別の人だったってだけ」

「それもなんか詩的だよね」


 茶化すことしかできない自分が恥ずかしい。こういう時、人はどうやって相手の想いに寄り添うのだろう。どうすれば、相手の欲する言葉をかけることができるのだろう。

「そう? 私も文学少女になれるかな。けどあの人、『ああ』と『そうだね』ばっかなんだよね」

 けれど沙也加も悪い気はしなかったらしい。そうして零す夫の愚痴は、昔どこかで聞いたことがある気がした。


「それで、今日はのんびり読書でもって感じなの?」

 心に描く不甲斐なさを拭いたくて、葉月は話題を変えた。

「そうだよ。たまには、仕事からも主婦業からも解放される時間がほしいし」

 沙也加は少し頰を膨らませる。

「でも意外だった。沙也加はその手の小説苦手そうなのに」


「高校生の頃は小説なんてほとんど読んだことなかったけど、それはやっぱり葉月のおかげっていうか、影響だと思う」

「小説ばっかり読んでたからね、私」

 沙也加の真剣な視線を正面から受けた葉月は、素直に頷いた。

「この本も、初めて読んだ時からずっと、葉月が好きそうだなって思ってた。葉月なら、きっとこう思うんだろうな、とか。そうやって読んでいると、高校生に戻れるような気がして」


 沙也加の話を静かに聞く時間になった。言葉を切るたびに、沙也加の中に蠢く獣が今にも飛び出すのではないかという恐怖が襲ってくる。その犬歯が自分に向かってくるのではないか、そう思い、ひやりと汗が浮かぶ。

「葉月は気づいてなかったかもしれないけど、一度すれ違ったんだよね、向こうのサイクリングロードでさ。無性に懐かしくなって、でも振り返ることはできなかった」


 あの時、沙也加も自分と同じことを考えていた。二人の間に聳える高い壁を前に、過去を過去と捨てきれない気持ちと、今に向き合う意識の間で惑っていた。同じ葛藤と向き合い、今日という日に出会ったことは、何を啓示しているのだろう。

「葉月を裏切った私に、そんな資格はないって、そう思った」


 沙也加の独白は、流れを失い、淀んだ水を湛えた湖を想起させた。自分の中にあるのと同じ、己を縛る檻だ。沙也加も自分と同じなのだ。どこへ向かうかもわからない舟に乗って、漂流している姿を想像する。


 ほとんど手をつけることのなかったコーヒーにはすっかり結露が浮かんでいた。空気の涙がそろそろとグラスを流れ落ち、コースターに染みを作っていく。それを見ているうちに、鼻の奥が熱を帯び、沸騰した感情が溢れ出す。涙が頬を伝い、嗚咽が喉をせり上がってくる。


「私が泣く流れじゃないの?」

 沙也加の声がする。それも涙で濡れているような気がした。自分でも、どうして泣いているのかわからなかった。梅雨の空のようにただただ水が溢れ、こぼれ、滴っていく。行き場をなくした水が湖へ注がれる。瀑布とは違う、澄んだ流れ。それが淀んだ湖を潤し、新鮮な酸素を湖底にもたらした。窒息寸前まで追い詰められていた葉月はそこで、大きく息を吸った。


 裏切ろうとしたのは、自分も同じだった。妄想の中で、葉月は何度も稔との未来を実現していた。行動に移したかどうかの違いだけで、何も変わらない。けれど、苦しみも悲しみも、自分ひとりだけが背負っている重荷でないことも、同時に理解した。沙也加も似たような煩悶を心に宿していた。それさえ、あの頃の自分にはわからなかった。

「私、ずっと後悔ばかりだったから。しかも、沙也加の気持ちとか、何も考えてなくて」人生に失敗し、後悔を抱え、それを言い訳にして、何もしてこなかった自分に、涙を流す資格はないのかもしれない。


「葉月……」

 それでも、沙也加の存在が涙の源泉を温めるのを感じた。浮力を増した水によって、湖の底に固着した体がふっと軽くなる。涙に押し出されるように、湖面近くまで上昇した葉月の目に、何かが見えた。前後不覚に陥った自分が求めているものだと、直感する。

「ごめん。自分勝手で。でも、何だかすっとした」


 指先で涙を拭い、僅かに笑ってみせた。見えかけた何かは、そうしている間にするすると水面を滑り、どこかへ行ってしまう。まだ追いかけることはできない。何かが足りない。けれど、それはきっと、沙也加と一緒にいれば出会うことができるかもしれない。そう思った。

「訳わかんないし」


 沙也加は呆れ顔でそう言うと、グラスに残ったコーヒーを一口飲み、文庫本に掌を添えた。そこに、窓から光が差し込んだ。「後悔か……。後悔してる。高校卒業してからずっと。でも、それも今日で終わり」

 昨日から降り続いていた雨が上がり、太陽が顔を出していた。それはまるで、今ここにいる二人のこれからを照らしているようにも思えた。


「雨が上がったから?」

 けれど、それではこの空の下にいる人が総じて晴れやかな気持ちでいることになる。おそらく、そんなことはない。そんなことはなくても、そうなったらいい、と思える程度には、葉月も落ち着きを取り戻していた。


 葉月の発言に、沙也加もまた「出た、妖怪文学少女」と茶化し、笑顔になった。

「違うよ。葉月を自治会の仕事に誘う口実ができたから」

「どういうこと?」

「友達だったら、引き受けてくれそうじゃない?」

「訳わかんないし」

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