第20話

 沙也加が言うには、秋まつりの準備がそろそろ始めるらしく、自治会の婦人会としての仕事をいくつか頼まれているらしい。

「若いからって力仕事も多くてさ。まだ入って日も浅いから、相談できる人もいなくて」

「それで、私がそれを手伝うわけ?」

「お願い。何でもするから」


 最初からこのためにしおらしい態度だったのかと疑ったが、「さすがにそんなことはないって」と否定されれば、素直に信じるしかない。

 自治会の仕事と聞いて、まず浮かんだのは克則の顔だった。会合で酩酊し、帰るなりソファーでアザラシのように寝転がる醜態と、朝早く学校に向かう溌剌とした背中、そして定職につかない葉月に向けられた侮蔑の視線。それらが代わる代わる葉月の頭の中を周り、三方から葉月を射竦める。


 自治会の仕事となれば、克則との関わりが増えることになる。名誉挽回となるか火に油を注ぐことになるのか、頭の中に浮かび上がった天秤が行ったり来たりするのを見ているうちに、それを同意の沈黙と思ったのか、沙也加は「助かった」と机に体を預けた。


 そこで通路に気配を感じ、傾けた顔が稔の視線に捕まる。タイミングを見ていたのか、はにかんだ表情のまま、テーブルの上に水を置き、すっと席から離れていく。

 ついその後ろ姿を追いかけてしまい、入り口近くまで歩く背中が、沙也加のニヤついた顔に隠れた。

「やっぱり、葉月は変わらないな」

「何それ」


 戯れに会話を続けてしまい、すっかり断るタイミングを逸してしまった。

「それで、具体的には何をするわけ?」

「まだちゃんと決まったわけじゃないんだけど、当日に集会場に置くドリンクとか、クーラーボックスの準備でしょ、それからまつりの宣伝用ポスターに、子供会のお囃子の指導の補佐、それから——」


「そんなにいっぱいあるの?」

「うん。どれもこれも誰かの仕事を引き継ぐ感じで、毎年のことではあるんだけど」

「お囃子とか、小学校以来やってないし」

「でも、意外と旋律は覚えていると思うよ」


 言われてみれば、確かに太鼓と笛の応酬のところは何となく印象に残っている。

「補佐だからさ、そんなに肩肘張ることもないし。っていうか、私も詳しくは知らないんだよね」

「そういういい加減なところ、昔のまんまだね」


 そうして沙也加に逆襲をする傍で、葉月はまつりの足音に耳をそばだてていた。屋台を引く子供たち、お囃子、先導するラッパ隊、提灯を持つ大人たち。雑多な雰囲気の中にも秩序があり、そこには厳かで神聖な気配が漂う。

 孤立無援の東京と違い、ここにはひとつの文化を共有する住民がいる。そう思えば、心強い、とも感じる。


「詳しい話は、来週あたりに会合があるから、そこで聞けるよ」

「きっと、って続けると思った」

「たぶん」

「可能性が半分くらいに下がったんだけど」

「不安なんだもん、しょうがないでしょ」

「いいよ。一緒にやってあげる」


 困っている友人を見捨てるわけにはいかない。そうして自分をごまかし、残りのコーヒーを飲み干す。

「ありがと。やっぱり葉月に会えてよかった」

「旅は道連れ世は情けって言うでしょ?」

「昭和臭漂う言葉だよね、それ」

「平成生まれなんですけど」

「奇遇だね、私もだ」


 沙也加がそこで視線をカウンターの方へ向けた。稔がそれに気づき、伝票を持って近づいてくる。

「サンドウィッチのセットをください。葉月もなんか食べなよ。奢るから」

「え、いいってば」そう固辞したものの、沙也加が勝手に「同じものをもうひとつください」と注文してしまった。

「少々お待ちください」


 稔が恭しく頭を下げ、カウンターに戻っていく。沙也加と話をしているうちに、すっかり昼を過ぎていたようだ。近所に住んでいる老夫婦と、近くの工場で働いているという中年の男性、そしてショッピングモールで働いていると思しき女性グループ。銘々が決まった席に座り、決まったメニューを頼んでいる。


 まつりにだけは、関わらないでおこうと思っていた。克則の率いる自治会は、まつりのために存在していると言ってもいい。この辺りでは、秋のまつりが一年の節目を作る。始まりであり終わりの時。何かが始まり、何かが終わる時。小さい頃はそれが当たり前だった。時期が来れば、何の疑問も持たずにお囃子の練習に行き、まつりの期間中は法被を着て屋台の上で笛を吹く。そうして自分の生活の一部だったまつりは、浜松を離れた七年の間にすっかり色あせていた。


「何深刻そうな顔しているの。奢るって言ったじゃん」

「そうじゃなくて。父親がさ」

「会長さん? 喧嘩でもしたの」

「ちょっとね。ずっと冷戦中だったんだけど、昨日ついに宣戦布告されたって感じかな」

「あらま」


 沙也加が口をぽっかりと開ける。親子喧嘩の愚痴を言っても仕方ないのだが、今の状況を考えれば、沙也加に話をしないわけにはいかない。

「向こうの言ってることはもっともだしさ。かといって、正社員とか、そういうのはもううんざりだし」

「そういうこと……。仕事か」


 沙也加が頬杖をつき、唇をすぼませる。右に偏った唇がえくぼを作る。それだけで悩ましそうな顔つきに見えるから不思議だ。

「仕事……。会長さんの立場からすると、承服しかねる! っていうのもわかるけどね」

「それでも、この場所を否定されたのはショックだった」


「どうしてだろうね。どうして、生きるのってこんなに難しいんだろう」

「沙也加もなんかあったの?」

「ううん。カウンセラーって、人の悩みを引き受けるのが仕事だから。その生徒に寄り添いながら、学校とか教育委員会とか家庭裁判所とか、そういうところに働きかけて、転校を勧めたり、進学のアドバイスをしたり」

「私もカウンセリングされてるの?」

「ここのお代で手を打つよ」


「奢りじゃなかったの?」沙也加がカラカラと笑う。けれど、すぐに真面目な顔に戻る。

「ただ生きていく。それを達成するためのハードルが、この国は高すぎる。貧困とか格差とか、そういうのが生きる力を削いでて、どんどん追い詰められて。生徒さんでも、そういう家庭の境遇を相談しに来る子もいるし」


 ただ生きているだけの自分が嫌で浜松に帰ってきた身に、沙也加の話はずしりと響いた。

 生き方は人それぞれで、そのそれぞれが、内側にどうしようもない悩みを抱えている。周りと比べてどうとか、そういうことではない。何かが違うという曖昧な感覚に苛まれながら、それでも生きている。生きるしかないのだ。


 自分はただのわがままなのだろうか。贅沢を言っているだけなのだろうか。

 自分の夢が叶わなかったのも、東京から逃げてきたのも、自分が甘えていたからだろうか。

「ただ生きていく、か。生きるために仕事をしていて、それでもうまくいかなくて、何のために生きているのかわからなくなる。みんな、そうなのかもしれないね」


「生きてる理由を考えてたらきりがないよ。思うんだけど、究極的には、種の継続とか、脳の信号とか、そういう夢のない答えに行き着いちゃうから」

 沙也加がつまらなそうに言う。

「心臓が動いているから大丈夫、みたいなね」


 仕事をしていて、「大丈夫?」と先輩に話しかけられ、思わず口をついた言葉が蘇った。思えば、あれは仕事を振ってくれという合図だったのだろうが、当時の葉月にはそんな余裕はなかった。そうしてお茶を濁し、とにもかくにも目の前のタスクを消化するのに必死になっていた。

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