第21話

 葉月が入社した頃は、折しも日本が様々な難局を打開し、政治も経済も、上へ上へと登っている時代だった。就職した電機メーカーも事業拡大を推し進めていて、中南米への投資を始めたことは報道もされた。

 数週間の新入社員研修ののち、葉月は本社の経理部へ配属された。国内工場の備品調達や資材購買の決済やら経費申請やら、覚えなければいけないことは山のようにあった。簿記の知識がなかった葉月は、仕事が終わったあとも会計の本を読んだり社外研修に臨んだりして、必死にしがみ付いた。


 夜遅くベッドに潜ると、決まって浮かぶのが克則の言葉だった。『納得していようが後悔していようが、それを葉月が決めたのなら、それでいい』それを思い浮かべるたび、涙が滲んだ。本当は、何も納得していないし、ここにいるのは、決めたのではなく他に道が見えなかったからだ。後悔の塊に出口を塞がれ、現実に押しつぶされながら、葉月はただその場に踏み留まることしかできなかった。


 それでも、夏が終わる頃まではどうにか無事に過ごすことができた。空気が変わったのは、一年目の秋、海外の子会社工場の財務諸表を作成している時だった。先輩社員について、二人で手分けして作業をしていたのだが、そこで壁にぶつかった。どうしても計算の合わないところがあったのだ。

「大丈夫?」


 頭を抱える葉月に、先輩は声をかけてくれたが、葉月はとにかく自分が計算ミスをしているのだろうと思い、「心臓は動いているので……」と言ってひたすら電卓を叩いた。

 葉月は胸の奥に棘が刺さっているのを感じた。じくじくと執拗に心臓を指す痛みに耐え、表計算ソフトと格闘した。


 結局は、すぐに先輩が横から割って入り、二人で最初から数字を読み上げ、一つひとつ値を入力することになった。

「これは、もしかすると祟り目かも」

「祟り目、ですか?」


 二人で書類とにらめっこをすること数十分、不安そうな声を上げた先輩社員の言葉をおうむ返しする葉月には、そのあとの展開を予想することはできなかった。

 まさか、その工場が水増し請求を繰り返し、不当な利益を得ていたとはその時まで誰も想像していなかった。


 その先輩は、すぐに上司にことのあらましを話すと、ひとり身支度を整え、「じゃあ、ちょっとメキシコの工場まで行ってくるから」と手を振り、本当にそのままメキシコへ飛び立ってしまった。

 あとに残された葉月は、堆く積まれた書類の山を呆然と見上げるしかなかった。


 そこからの混乱は、中南米に投資が決まった時以上に世間を賑わせたが、事態は世間の喧騒さえ掻き消されるほどの衝撃を会社にもたらしていた。

「うちの会社、やばいかもな」

 同じ部署の別の先輩は、フロアで部長たちが右往左往する様子を見るたび、そうして呑気そうな声を出した。漏れ聞こえるのは、北米も? であるとか、粉飾も? であるとか、新人であっても危機感を持たずにはいられない文言ばかりだった。


 第二四半期の決算は遅れに遅れ、ついには確定しないまま新しい年になってしまった。海外子会社の会計操作に端を発した一連の問題は雪だるま式に膨らんでいき、前年の決算に粉飾の疑いが濃厚となった時点で、会社は記者会見に踏み切った。


 その日以来、株価は坂道を転がるように下落を続け、得意先が次々と同業他社との取引を始めたことで、会社の業績は急速に悪化していった。同じフロアにある営業部は、阿鼻叫喚の坩堝と化し、自暴自棄になった営業部の担当者たちは、コーポレート部門のこちら側にやってきては、「掃除機いらない?」「冷蔵庫のいいのがあるんだけど」と冗談とも本気ともつかない懇願をし、ひどく寂しげな顔をして帰っていくのを繰り返した。


 会社が事業の整理を余儀なくされ、希望退職を募る事態に陥った頃には、同期入社の多くが転職活動を始めていて、昼休みはいつの頃からか転職の情報交換の場となっていた。

「山瀬さんも、早くした方がいいよ。今ならまだ、七月入社間に合うし」


 不意に話が自分に及び、箸で摘まんだ唐揚げを落としそうになった。葉月にそう告げた同期の木村は、不安げな眼差しを葉月に向けていた。

「そうだよね。転職サイトの登録はしたんだけど」


 葉月は木村から目を逸らし、唐揚げを見るともなしに眺めた。からりと揚がったそれは、いつもなら葉月の食欲を刺激するのだが、その時は渦巻く心の湖がそれを拒んだ。

 広報部所属の木村とは、同じ大学ということもあって入社以来仲良くしていた。商学部卒の木村は、どちらかといえば数字に強く、二人で会えば、いつか配属先を交換したい、と話すことが多かった。


「どういう会社探しているの?」

「あんまり、イメージが湧かないんだよね。新卒の時から何も変わってないのに、転職っていうのもなんかさ」

「そんなこと言ったって、いつまでもここにいれないじゃん」

 木村の言いようは、危機感というよりも諦めが透けて見えた。


「そうかもしれないけど」

 言葉を濁し、葉月は味のしない唐揚げを頬張った。木村に言われるまでもなく、葉月も状況は認識しているつもりだった。潰れることはなくても、泥舟にいつまでもしがみ付いているのは愚策だ。早く舟を降り、救助されるのを待つか、別の舟に乗り移るか。何か考えないと取り返しのつかないことになる。


 わかっていても、葉月は踏み出すことができなかった。夢を捨て、後悔の海に漕ぎ出した自分は、最初から根無し草と同じだった。漕ぐことさえも忘れ、流れに身を任せたまま日々に忙殺されている自分を自覚してもなお、葉月は暗い湖に住む獣の気配に怯え、体を縮こませていた。


 ひとり、またひとりと会社を去る同僚や上司、彼らは口々に「卒業」と言い、自らの行為を正当化していた。苦境に立たされた会社から見放された人もいれば、そんな会社を見限った人もいた。どちらでも結果は同じだ。彼らは次の場所を見つけた。それだけのことだった。


 木村は、その年の三月で退社した。転職先は、国内を中心に事業を展開している大手機械メーカーだった。「どちらかというと、私は冒険家じゃないんだよね」最後の日、別れ際に木村が言った言葉が妙に胸に残った。転職以上の冒険がどこにあるのか、そう思ったが、口には出さなかった。


 泥舟に縋り、そうして春を迎えた葉月に、突然転勤の命令が下ったのは、四月に入ってからだった。人事発令は天命、とはいえ四月最終週からの工場勤務は葉月も経理部も予想していなかった。形ばかりの引き継ぎをして、着の身着のままといった心境で赴いた先は、川崎市にほど近い工業地帯だった。


 駅と工業地帯を結ぶバスに乗り、最寄りのバス停で降りると、そこは都市の喧騒とはまた違った慌しさに溢れていた。広い道路を大型車両がひっきりなしに走り回り、粉塵を巻き上げる。そこかしこで警告音が聞こえる。蒸気の吹き上がる音がこだまする。研修期間中に見学をした時の記憶を呼び起こし、葉月は事務所へと足を向けた。


 同じ会社とは思えないほど、工場というのはまさに現場だった。流れている時間が本社とは違っていた。工作機械が部品を削る音。ロボットアームの稼働音。そうした、日常生活では聞くことのない音が、葉月の肌を叩き、時を刻んだ。

「本日付で配属になりました、山瀬葉月です。よろしくお願いします」


 工場長に促され、朝礼で挨拶をした葉月を、同僚は湿った拍手で迎えた。それに被せる形で、工場長が訓辞を述べた。

「この工場はもとより、全社的に非常事態と言ってもいい状態が続いています。今日の雌伏がいつか花開くことを信じて、職務に邁進して欲しいと思います。これは山瀬さんだけでなく、ここにいる全員へのお願いです」


 不採算部門の売却や市場からの撤退をしてもなお、選択も集中もできないような綱渡りの経営が続いていた。工場でも、ラインを止め、組み立てる製品を絞り、購買は必要最低限で、部品の在庫管理は徹底するように本社からも通達が出ていた。それだけでも大変なのに、希望退職は、会社の想定を超える規模の人員不足を招いていた。

 つまるところ、仕事の量は経理部の比ではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る