第13話

 葉月の疑問は、しかし稔には農業に対する純粋な問いかけと映ったようで、さして考えることもなく、稔はすらすらと答えを並べ始めた。

「耐えるんだよ。水や肥料を調整して、環境が整うまで、じっと耐えるんだ」


 自分で移動したり栄養を摂取したりできない植物にとって、太陽の光は生命活動の維持に不可欠だし、温度は高すぎても低すぎてもよくないだろう。それは確かに、耐えるしかないとも思えた。


「どうしようもなくなっても、ですか」

 それでも、葉月は問いかけをやめられなかった。自分の諦念と農業を重ね合わせても、何かが変わるわけではない。自分はただ、現実から目を背けていただけだ。できるかどうかもわからずに手を出して、失敗したら逃げ出して、その繰り返しが葉月をここまで拗らせていた。それを認めるのが怖かった。


「よく言うでしょ? 諦めたらそれでおしまい。ということは、諦めなければ、ずっと続けることができる。失敗を先延ばしにしているだけ、っていつも言われるけど、それも大切なことだって思う」

 葉月は顔を上げ、稔の顔を見た。恋愛も将来の夢も、全てを諦めて浜松に帰ってきた自分にとって、それは頭を叩かれたような衝撃を伴って葉月の胸を震わせた。


「そんな風に考えられるのは、すごいです」

 仕方がない、自分は努力をした。だからこれ以上は……。そうして自分を騙し、欺き、諦念を受け入れてきた。それが誤りだった、と認められるほど自分は強くない。そもそも稔のそれは、誰かに指摘されているように、悪あがきなのかもしれない。それでも、まっすぐにホワイトボードに向けられた曇りを知らない目を見ていると、諦めないことで見える何かがその先にあるのではないか、とも思える。これまでの自分では到底辿り着けなかった場所に稔はいる。それが羨ましく、また少し疎ましくもあった。


「そんなことないよ。さっきも言ったけど、先延ばししているだけかもしれないし。ポリシーっていうか、心構えかな」稔はふうっと笑うと、コーヒーをごくりと飲み干した。「プリントアウトするから、山瀬さんはちょっとそのまま待ってて」


 稔はパソコンに向かい、フォルダからいくつかのファイルを展開すると、必要な部数を印刷し始めた。プリンターが唸りを上げ、紙が出たり入ったりを繰り返す。葉月はひとまず胸中に渦巻く雑多なざわめきを脇に置き、プリンターから出力される資料を一部ずつホチキスで留めていった。


 最初に印刷をしたのはプレゼンテーション用ソフトで作られた資料だった。前回の重要事項に始まり、苗の生育の様子やポッドへの植え替えの手順など、さっき稔が話してくれたその意味が図解付きでまとめられていた。

「仕事の手順書みたいですね」

「そうかもね。でも、これだけだとやっぱり伝わりきらないかな。実際に野菜や土に触れてもらって、肌で実感してもらうしかない部分も当然あるから」


 言葉や文字を追いかけ、そこに未来を見出そうとした自分には、それは直視しづらい光景だった。肌で感じるということは、その人の感覚に委ねるということだ。自分と同じように感じてくれる確証はなく、誤解がそのままその人にとっての真実になる場合もあるだろう。誤った理解は時として重大な間違いを生む。それでも、それに頼ることでしか行き着くことのできない場所があるのだ。


 こちらの戸惑いを知らない稔は、他の資料も印刷し、ホチキス留めをしたそれらを一部ずつ掴み、クリアファイルに綴じる作業に入った。葉月も稔の真似をして作業を手伝った。

 準備を終えてしばらく経った頃、事務所のドアが開き、檜山が顔を出した。

顔を上げた葉月はちらりと壁にかかった時計を見た。時刻は八時半に差し掛かろうとしていた。


「そっちはもう大丈夫け?」

 檜山の言葉に、稔は立ち上がった。

「ええ。行きましょうか」

 稔が答え、葉月も立ち上がった。書類の束を抱え、稔に続いて事務所を出た。五月の日差しはすでに日中と同じように空を青く染めていた。さっぱりとした空気はやがて訪れる夏を感じせることはない。ただ今日が始まっていく。葉月は抱えた資料に視線を落とし、稔の後ろを歩いた。





 畑の一角、緑のネットで区切られた区画には、すでに二人の生徒がいた。一方が緑、もう一方が黄色の上着を着て、揃いの紺色のズボンを履いていた。

「佐々木さん、お待たせしてしまってすいません」

 二人に駆け寄った稔が恭しく頭を下げる。


「いいんですよ。たった今来たところですから」

 女性の方が手を振り、笑顔で答えた。二人は、上着も帽子も同じデザインの色違いを身につけていた。

「このお二人はご夫婦で参加している佐々木さん」稔が二人を紹介し、葉月は軽く会釈をした。「他の生徒さんはまだ来ていないみたいなので、向こうの木陰に入りましょう」


 稔が振り返って指を差した。車庫の脇に立つ大木の陰へ近づくと、そこにはいつの間にか木材を組み合わせただけの簡素な椅子が置かれていた。

 夫婦は初対面の葉月に興味津々といった様子で、特に夫人の方は座るやいなや葉月に人懐っこい笑顔を見せ、生徒なのかと訊いてきた。


「いえ、私は川端さんの喫茶店で働いてて、今日は手伝いって感じで」

「そうなの。助手さんけ? 今日はよろしくね」

 柔らかく微笑む夫人に、葉月も知らず笑顔になる。「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 佐々木夫人は穏やかに手を振ると、その視線を夫の方へ注いだ。すでに檜山と話し込んでいた様子の夫を眺め、夫人がその談義に加わってしまうと、葉月は目の行き場を畑に求めた。


 時折吹く風に揺れる葉が日光を反射して、光のベールがそこにあるような錯覚に陥った。空の青と植物の緑、そして土の茶が、見える景色の全てだ。一見すればそこには人の立ち入る余地などないようにも思われた。この場所が自分を受け入れているとは到底思えず、葉月は今更ながら疎外感を胸に抱いた。稔の役に立てるならと来てみたものの、結局は、稔のそばにいたいだけではないのか。そのくせ話に入るきっかけさえ掴めず、孤独に立ちすくむ自分。こんな自分が見たくてここに来たわけではないのに。


 結論のない内奥の煩悶は、しかし長くは続かなかった。タイヤが地面を擦る音がして、葉月は濁った視界をそちらに向けた。一台のワゴン車が車庫の前までやって来て、脇の茂みに体を寄せるように停まった。


 座っていた檜山や佐々木夫妻が立ち上がる気配がして、教室の生徒が来たのだとわかった。スライドしたドアから女性がひとり、そしてまたひとり。最後に運転席からもうひとり女性が降りてきた。それが篤子だと気づいた時、葉月は思わず後ろを振り返った。きょとんと首を傾げる稔の顔を一瞥する間もなく、すぐに肩を叩かれてそちらに顔を向ける。突き出された指が頬にめり込み、葉月はじっとりとした視線を篤子に浴びせた。


 篤子はにやにやと笑いながら受け流し、一緒に来た女性たちと連れ立って檜山や稔に挨拶をして回った。

「おはようございます」その声は溌剌としていて、普段の篤子と変わるところがなかった。

「お母さん、何やってるの?」

 葉月は篤子の袖口を引っ張り、耳元で詰問した。


「何って、生涯学習? 誘われたもんで、今年から始めてみたんだけど」

 あまりに明確な答えに、しかし葉月の聞きたかった回答は含まれていなかった。朝の篤子の顔が脳裏に蘇る。あの時はてっきり稔との関係を詮索されているのかと思っていたのだが、篤子の言った「珍しいこと」というのは、何も農業の手伝いをすることを差していたわけではなかったのだ。


「私がここにいること知ってたの?」

「知ってたのって、知らなかったの?」

 真逆の質問をして、葉月と篤子は揃って稔を見た。

「わざとじゃないですよ。確信が持てなかったんだ。同じ苗字なんだなって思っただけで……」


 二人の視線を同時に受け、稔は両手の人差し指を立てて左右に振りながらあたふたと答えた。葉月も稔を責める気はなかったが、この恥ずかしさをぶつける場所を他に知らなかった。

「個人情報とか、難しい時代ですもんね」


 篤子がそれらしい言葉を並べたが、それは稔を慮った言い方で、葉月は赤くなった頬を背け、「私は先に行ってます」と言ってその場を離れた。家庭の中で、親子としてしか接したことのない篤子と、一体何を話せばいいのだろう。


 じゃりじゃりと砂粒が靴底を擦り、後ろの話し声が遠ざかる。農業教室用の区画に入る。稔たちはまだ木陰で談笑していた。大人の習い事というのは元来こういうゆるい雰囲気なのかもしれない。葉月は稔たちがこちらに来るまで、じっと畑の土を見ていた。何も植えられていないまっさらな土地は、雑念にまみれた葉月を笑うことも励ますこともなく、ただその時を待っているようだった。

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