第12話

 葉月はもともと、出版業界に興味があった。本が好きだったこともあるが、インターンシップに参加したことで、雑誌の企画や構成にも興味が湧いていた。インターネットが世界を席巻する現代、衰退の危機にあるとも言われる出版業界であっても、何かを作り、人の心を動かすのは、やはり文字であり確実な情報なのではないか、そう思っていた。


 文字には力がある。五十の異なる響きを持つ音の集合体である言葉が、文字によって再現性を獲得し、歴史を記し、時代を作る武器となった。人文科学を学ぶまでもなく、人の歴史は文字の歴史とイコールだ。歴史で語られることの多くは、誰かが残した記録であり、その人が生きた証なのだ。


 大学では経済学を専攻したものの、葉月はマクロやミクロといった論理的な経済学よりは、人類学や民俗学などの授業の方が好ましかった。数式を追いかけるのではなく、文字を追いかけることこそ、人としての営みなのではないか。葉月はその証を残す手助けをしたかった。


 エントリーシートを作成し、履歴書を書いた。学んできたことと志望する業界に齟齬があるのは自覚していたが、そこはうまくまとめることができたと思っていた。就職セミナーでは添削もしてもらった。自己分析も抜かりなくやったし、面接でも臆面なく話すことができるだろうと自信さえ持っていた。


 まさか、入り口のエントリーシートでことごとく落選することになるとは想像もしていなかった。


 就職活動をしていて、自分も含めた就活生から最も恐れられていたのは〈お祈り〉だった。志望した企業から、忘れた頃に一通のメールが送られてくる。『今回はあなたの希望に沿う結論は得られませんでしたが、あなたの今後の活躍をお祈りしています』文面は企業により様々だが、必ず最後に祈られるのだ。祈る暇があるのなら、話だけでも聞いてほしい、と葉月はそのメールを見るたびに胸が締め付けられる思いだった。


 ある時など、そのお祈りメールの一文に『有意義な就職活動が遅れるようにお祈りします』と書かれたこともあった。時代が時代であれば炎上したはずのその誤植には、さすがの葉月も笑うほかなかった。そうしなければ心の均衡を保つことはできず、それを聞かされた友人たちは引きつった笑顔を向けるだけだった。


 唯一の救いは、出版系の職種はエントリー期間が他の業界よりも若干早かったことだ。雲行きが怪しくなった頃、葉月はところ構わずエントリーシートを送り、そのうちのいくつかからは面接の誘いが来た。


 最終面接に進むことができたのは、大手電機メーカーだけだった。ここがダメならもうあとがない、そんな状況だった。その頃には、すでに自分のやりたいこと、将来の夢、それらは全て脇に追いやられ、とにかく社会人になることが目標になっていた。


「弊社を志望した理由を教えてください」

 面接官の言う言葉に、葉月はもちろん正直に答えることができなかった。生活の潤いや幸福を提供できる、そんな当たり障りのないことを言うことしかできなかった。何がよかったのか、自分でもわからない。面接から程なくして内々定の連絡を受け、葉月の就職活動は五月の上旬に終わった。


 諦念と引き換えに、葉月は未来を手にした。けれど、それは単純に、翌年の四月からの身分を確保した、というだけだった。周りの友達は喜んでくれた。東証一部上場企業で、まして白物家電を売りにしているその会社は同業他社と比べても安定している印象があったのは事実だった。両親も、感想は同じようなものだった。篤子は「あら、いい会社じゃない」と言うし、克則も安心した様子だった。出版業界の苦境は世間にも知られていたし、両親としてはむしろその方がよかったと思っていたのだろう。


 小さい頃から、やりたいことは何か、やりたいことを見つけよう、と声高に叫ぶ教師や周りの大人の声を聞き、そうして見つけたやりたいことは、しかし夢でしかなかった。

 夢は、所詮は夢だ。目が覚めれば消えてしまう。それを掴むことができるのはごく限られた人で、大半の人々は多かれ少なかれ挫折をするものだ。人の夢は儚いというのは、まさにそういう現実を前にした誰かが当てた字なのだろう。


 どれだけ努力を重ねても、やりたいことができるほど、世の中は甘くなかった。それを知っているはずの大人が、子供に夢を追いかけろとけしかけるのは、単なる通過儀礼なのだろう。無駄に挫折を積み重ねていくのが、人生だと言わんばかりに——。


 一方の和樹は、早々に自分の志望する金融業界への就職を決めていた。

「第三希望くらいだから不本意ではあるけど、仕方がない」そのようなことを話していた。葉月を蔑むように、無慈悲に舐め回す矮小な男の顔がそこにあった。そこには、もはや葉月が恋をしていた和樹の面影はなかった。どれだけ葉月が疲弊していても、優しい言葉のひとつかけてはくれなかった。それどころか、第一志望の企業に落ちた時には、手酷く葉月を罵り、自暴自棄になっていた。


 それが和樹の本性だった。こちらのことなど、自分の欲望を消費するための道具としか捉えていなかったのだ。そうでなければ、葉月の現実を知ってもなお独善的な態度を取り続けるはずがない。盲目的に刺激を嘱望していた葉月は、ただ恋に憧れ、和樹に気に入られるように振る舞っていた。それが和樹を上長させていることにも気づかなかった。その現実を受け入れることを恐れてさえいた自分を、その時の葉月は強く恥じた。


 そうして我に返った葉月は、じっと耐えた。祝福も羨望も、和樹にこれ以上与えたくなかった。「私は会社で別の夢を見つけるよ」そうやって葉月は強がった。





 振り返ってみれば、本当に思い通りにいかないことばかりだった。カレンダーを見ることなしに眺めていると、「インスタントコーヒーだけど、はい」と稔に声をかけられ、葉月は拡散した思考を呼び戻した。

「ありがとうございます」


 来客用の小さいカップに注がれたコーヒーに口をつける。飲み慣れた味がした。それは逆に、喫茶店の休憩時間に飲むコーヒーを恋しくさせた。

「順調そうですね」


 葉月は、隣に座った稔に言った。適切な管理が意図した結果を生む。失敗するのは大抵準備が不足するか、誤っていた時だ。和樹との付き合いで学んだことは、勢いで付き合うものではない、ということと、和樹の人間性を見誤ったことだ。仕事も同じかもしれない。和樹と別れてから就職した会社でも、結局何もできなかった。見込みが甘かったり段取りが不十分だったり、些細なことで仕事は簡単に瓦解していく。


「教室のこと?」

 ホワイトボードを指差す稔に、葉月は頷いた。

「あのスケジュール通りに進んでるって感じですよね」

「計画に沿って育成するのが仕事、っていうのもあるし、その辺りの管理はきちんとしているからね」稔がカップに息を吹きかける。「でも、いつもそれ通りになるわけじゃないよ。やっぱり自然が相手だから、どうにもならないこともある」


「そういう時って、どうするんですか」

 葉月は、気づけばそう尋ねていた。計画はあくまでも計画だ。ホワイトボードに書かれたスケジュールも、それは予定でしかない。うまくいかないこともある。農業も、恋愛も、仕事も、そして人生も。

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