第11話

 ハウスの中には小さな畝があり、赤く色づいたミニトマトが植えられていた。

 目当ての苗は、そんなミニトマトの畝の脇にあった。卵のパックのように、くぼみが等間隔に空いた容器がいくつか並んでいた。縦横五列の小さなくぼみの一つひとつに黒っぽい土が入れられ、その真ん中から双葉が顔を出していた。


「そっちがトマトだね」

 稔が傍に腰を落とし、じっと苗の様子を観察しながら言った。よく見ると、全部で五十の芽が一同に息吹く姿は可愛らしく壮観だった。細い茎と小ぶりな双葉は、小学校の時に育てた朝顔よりも一回り小さい気がした。


「それで、こっちがナス」

 稔は隙間を開けて置かれたトレイを差して言った。そちらは双葉の先から更に芽が伸び、本葉が覗いていた。数は同じように五十ある。


「みんな元気そうですね」

「枯れてるものはないし、申し分ないな。今日はこのナスの苗を植え替えるんだ」

「畑に持っていくんですね」


 葉月は当然そうだと思っていたが、稔はそこで首を横に振った。

「畑に植えるのは、花の芽が出るくらいまで育ってからなんだ。植え替えるのはこっち」

 稔の手に、いつの間にか黒いカップが握られていた。小ぶりのヨーグルトやプリンの容器に似ていたが、それにしては柔らかそうだ。横に何本も溝が走り、よく見れば底には穴が空いている。


「ポットっていうんだ。ちなみに苗が植わってるのは連結ポット。苗の生育状況によって、こうして容器を大きくしていくんだ。外は害虫も多いし、まだ朝晩は寒いからね、しっかりと育てていくにはこういう手間も大事なんだ」


 稔は頬を緩め、嬉しそうに説明した。葉月は苗に顔を近づける。暖かい空気の中ですくすくと育つ小さな命にも、繊細な部分があり、人がその手助けをしているのだ。実りを得るために、お互い真剣なのだろう。


 ハウスに置かれたポットを苗の数だけ脇におき、植え替えの準備は終わった。

「土はあとで檜山さんが運んでくれるから」と稔が言い、葉月は稔についてハウスを出た。

「事務所に戻ろう。資料の印刷とかしないといけないから」


 朝入った時は荷物を置いただけでほとんど印象に残っていなかったが、事務所は事務机が二つずつ向かい合って並ぶだけの簡素な作りだった。入り口の左側には戸棚があり、青い背表紙のファイルが並んでいた。反対側の壁には複合プリンターが一台置かれ、その脇には流しがあった。換気扇がかたかたと音を立てている。


「適当に座って」

 稔はそう言って葉月に背中を向ける。蛇口をひねる音がして、水がシンクを叩く。コーヒーでも淹れるのだろう。葉月は立ち上がり、「手伝います」と言ったが、「いいよ。いつもやってることだから」と固辞されてしまった。行き場をなくした葉月は、仕方なく言われた通り椅子に座り、視線をさまよわせた。


 入り口から一番遠い壁に、横長のホワイトボードが掲げられていた。二ヶ月の予定が書き込めるようになっているそこには、今日の日付の欄に「農業教室 第三回」と書き込みがあった。その下には、隣の四月から伸びる矢印があり、何かと思えば、両脇のキャプションにそれぞれ〈種まき〉、〈植え替え〉、〈定植〉、〈収穫〉と作業の時期が書かれ、色分けされた矢印はおそらく作物ごとによって違うそのタイミングを区別するためだろう。今日をまたぐように、紫色の矢印が〈植え替え〉のところを走っていた。


 天候によって多少前後することもあるだろうが、適正に管理をすれば、そうしてスケジュール通りに育ってくれるのだろう。人と人との関係はそうはいかない。和樹との付き合いがまさにそれだった、と葉月はスケジュール表を見ながら思った。





 和樹と付き合い始めたのは、出会ってから数ヶ月経った頃だった。始めはアルバイト後に他の同僚と居酒屋に行く程度だったが、大学が夏休みに入るあたりで、二人きりの食事に誘われた。


 和樹が自分に好意を向けているのは気づいていたし、葉月自身もまんざらではなかった。その前の年、大学一年の時に同級生と数ヶ月付き合った経験はあったものの、まだキスまでしかしたことがなかった葉月は、内心焦っていたのかもしれない。二十歳になるまでには……、そんな意識がどこかにあったのだろう。


 イタリアンレストランで食事をしたあと、葉月は言われるがまま小洒落たバーに入った。

「おすすめとかってあるんですか?」

 隣に座る和樹に、葉月は訊いた。照明が落とされたバーでは、近づかないと相手の表情がわからない。得てして上目遣いになる自分を自覚して、葉月は内心どぎまぎしていた。


「《ブラック・ルシアン》とか、飲みやすくておすすめだよ」

 カクテルの名前はほとんど知らなかった。居酒屋にもあるようなサワー系しか飲んだことのなかった葉月は、薦められるがままそれを頼んだ。和樹は《レッド・アイ》なるものを注文した。


 カウンターを挟んでバーテンダーがグラスや酒の瓶を棚から取り出すのをぼんやりと眺めた。一軒目ですでに相応のアルコールを摂取していた葉月は、胸のあたりがふわふわした気持ちになっていた。隣で和樹が何事か喋っているのを耳に入れながら、葉月は目の前に迫った夏のことを考えていた。


 高校生の時、沙也加と河川敷に寝転んでいた時にも感じたことを、その時の葉月は強く意識していた。足りないのは刺激、この身を焦がすような圧倒的な熱。暗い湖の底からただ見ているだけだった太陽が、もう手の届くところにある。


 カクテルが運ばれてきて、二人のグラスが重なる。グラスの端を唇にあて、わずかにグラスを傾けると、鼻腔をアルコールの刺激が駆け抜けた。不安が喉を迫り上がるよりも早く、甘く芳醇で温かい液体が舌の上を転がった。ほのかにコーヒーの味がしたと思えば、気づくと葉月はそれを飲み込んでいた。


「美味しい」そう口にして、再びグラスを傾けた。氷でかさ上げされた《ブラック・ルシアン》はすぐになくなってしまった。

 アルコールが体内に入るたびに、葉月の心は軽くなっていった。心を覆う殻が一枚ずつ剥がれ、本当の自分の姿が見えるようだった。スピーカーから漏れ聞こえる洋楽の歌詞が頭の中を回る。〈brave sunshine〉と繰り返す旋律が葉月を鼓舞する。勇ましい太陽、それは葉月が望む景色だった。


 葉月は《ブラック・ルシアン》をお代わりした。体が熱かった。五臓から静かにゆっくりと沸き起こる熱、和樹から直線的に伝わる熱。伝導率の違う二つの熱に浮かされ、葉月は上気した顔を和樹に向けた。

 笑顔を浮かべる和樹の声に、体の奥が火照った。


 付き合い始めてしばらくは、出会った頃と変わらず優しかった。けれど、時間が経つにつれ、和樹の態度は漸進的に変化していった。一日単位で見ればほとんど変わらず、最初葉月は全く気づかなかった。

「お前、俺に何をして欲しいんだ?」


 いつからだろう。ことあるごとに、正確にはことが終わるたびに、和樹は硬い声を葉月に向けるようになった。ベッドにうつ伏せになったまま、葉月の耳元で発せられた声に、葉月はいつも体をよじりその胸に頭を押し付けた。


「言わせようとしても無駄だから」

 葉月は話を逸らし、強く和樹の背中に腕を回した。戯れ、体を寄せ合っていても、和樹の心はいつもどこか遠くにあるようで、葉月は胸に当てた耳に伝わる和樹の鼓動に耳を澄ませた。せめて心の声が聞けたらいいのだが、そういうわけにもいかなかった。


「明日早いから、もう寝るぞ」

和樹は体をひねり、葉月に背中を向けた。緩やかに上下する脇腹を見ることなしに眺めながら、和樹の言葉を反芻する。自分が和樹に求めているものはなんなのだろう。いっときの快楽か、それとも日々の刺激だろうか。


恋愛に何を求めるのか。和樹のことを想うと、果たして自分はこの男のことを本当に好きなのか、それさえも不安になってしまう。会えばこうして体を重ね、互いの存在を確かめ合っているはずなのに、和樹の体が動くたび、葉月の体が開くたび、言いようのない寂寥が沈殿しているような気がした。


葉月は和樹の背中に額を押し付けた。和樹の体は冷たく、火照った体がみるみるうちに冷えていくのを感じた。どれほど情熱的なキスでも、唇を離せば全てが元に戻ってしまう。どれほど絶頂を迎えても、その感覚は過ぎてしまえば幻のように消えてしまう。


 和樹との逢瀬を重ねるほどに募る寂寞は、湖の視界を悪くし、酸素を奪っていった。付き合う期間が長くなるほどに濁っていく湖を抱えながら学年だけが上がり、就職活動の時期になった。

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