第6話
映像はすぐに動き、たちまちその姿はテレビのフレームから外れてしまった。レポートはそのあとも続いたが、もう葉月には関係のないことだった。ただひたすら、記憶の中にだけ残る映像を反芻した。短く刈り上げた髪、長く高めの鼻筋、やや日に焼けた肌、そして切れ長の目尻——。七年という歳月を隔てて戻ってきたその男性の姿は、葉月の胸を強く揺さぶった。
男性が歩いていった方向を思い描く。正面の入り口から向かって左側、それは従業員出入り口のある方で、喫茶店のある交差点に繋がっている。
まだいるのだ。夜食を買ったのか食材が急に必要になったのか、いずれにしてもあの人は今、あの場所にいる。
「お母さん、ちょっと出かけてくる!」
葉月はいてもたってもいられなくなった。大急ぎで自室に戻ると、パーカーを脱ぎ捨て、クローゼットから白のカットソーを取り出して頭から被った。
「ちょっと、ご飯は?」階下から投げかけられた声に、カーディガンを掴みながら「帰ったら食べるから」と短く返し、階段を駆け下りるとまっすぐに玄関へ走り、靴を引っ掛けて篤子の自転車にまたがった。
日が暮れて急に涼しさを増した夜風が額に疼痛を誘う。交通量の多い通りを抜け、路地を走る。耳元で風が騒ぎ立てていた。何をそんなに焦っているのだ、と葉月を密やかに諌めているようだった。
体が勝手に動くというのはこのことなのだろうか。冷たい風に当たってもなお、葉月の頭はぼんやりとした熱に浮かされていた。
街灯のほとんどない路地からサイクリングロードに入った頃には、息が上がっていた。自分の息遣いが別の生き物のように生々しく聞こえた。じっと心の中でくすぶっていた感情が爆発し、それは葉月自身でも止めることのできない衝動となって、太腿をピストンのように上下に運動させた。
大通りに出ると、そこはもうショッピングセンターのすぐそばだった。喫茶店の正面に当たる交差点で停車する。肩が上下に揺れる。息が切れていた。ブレーキにかけていた指が緩む。無理やり深く息を吸い、呼吸を落ち着かせる。
青信号に変わると、葉月はペダルを踏み込み、体を前進させた。ハンドルを握る手に、疲労とは違う汗が滲んだ。
喫茶店の明かりが間近に迫ってきた。葉月は喫茶店の脇、駐車スペースの隅に自転車を停めた。何台か並ぶ自転車に寄せ、鍵をかける。その音がやけに大きく響いて、壁に反射した。そんな音にびくりと体を震わせながら、葉月は恐る恐る正面に周り、窓から中の様子を伺った。
店内に客はいなかった。レジにあの人の顔を認めた途端、心臓が飛び跳ねるように脈を打った。
汗の滲んだ掌をジーンズに擦り付け、葉月は慎重に喫茶店の扉を開いた。浜松に帰ってきた初日に入ったはずなのに、その時とは何もかもが違うように感じた。落ち着いた照明、気の利いたジャズ、そしてコーヒーの香り。息をするだけでこの店の一部になってしまうような感覚に、葉月はしばし我を忘れた。
「十九時がラストオーダーですけど、大丈夫ですか」カウンターから出てきたその人は、テレビに映った姿のままだった。直接会って、葉月は確信した。ついさっきまで、思い出の中に漂う記憶の集合体だったその人が、目の前で実体を伴って存在していることに、葉月は心を奪われた。
葉月は小さく頷き、手近の席に座る。メニューを見る振りをして店内を眺めた。カウンターの奥で、洗い物をしている音だけが響く。店じまいの準備をしているのだろう。さっき買いに行ったのは、そのスポンジか、そういうものだったのかもしれない。
メニューは見ていたが、何を注文すべきなのかはわからなかった。そんなものは最初からないはずなのに、どれを頼めば彼のお眼鏡に叶うのか、そんなことばかり考えてしまう。ホットコーヒーはドリップとかするだろうし、やはりアイスコーヒーがいいだろう。
葉月が視線を上げると、いつの間にかその人がすぐ脇に立っていた。伝票を片手に、落ち着いた様子で待つその横顔に、葉月は自分でも思いがけない言葉を投げかけた。
「あの……。アルバイトって、まだ募集してますか?」
**
突然自転車で走っていって、帰ってくるなりアルバイトをすると宣言した娘を、篤子は相変わらず「あら、いいじゃない」と軽く受け止めてくれた。葉月は急いで履歴書を買いにコンビニへ走り、翌日には晴れて採用となった。必要な書類にサインをして、免許証とキャッシュカードのコピーを渡し、手続きはすぐに終わった。
「日曜日なのに、悪かったね」
彼は名前を川端稔といった。今年で三十歳になるらしい。
「いえ、こちらこそすいません。お店お休みなのに」
店には稔と葉月しかいなかった。テーブルに向かい合って座り、葉月が提出した履歴書に目を通しながら、稔は「いいんだ」と小さく首を振った。
「四月でアルバイトの子が急に辞めることになって、実はかなり焦っていたんだ」
昨日の今日で随分呆気なく決まったと思えば、それには事情があったらしい。すぐ目の前に稔がいる。そのことが未だに信じられず、葉月を不安な気持ちにさせた。
「あの、今更なんですけど、私接客とかしたことがなくて」
弱気な声になった。けれど稔は、そうかそうか、とただそう納得するように頷くと、思いついたように「大学生の時アルバイトとか、してなかったの?」と訊いてきた。
「してましたけど、塾講師でしたし」
「塾で教えてたの? 教科は?」稔はそこで初めて葉月に関心を示した。
「算数と国語です。小学生相手に」
問題を読み、線を引かせ、算数なら数式を、国語なら言葉の意味を一緒に考えた。それは仕事というよりは、一緒に遊んでいるような感覚だった。真っ白いキャンバスに絵を描くように、子供と一緒に筆を、あるいは刷毛を取り、新しい線を、色をつけていく。少しずつ成長していく子供の姿を見ていると、自分もまだ成長できるのではないか、そう錯覚することもあった。
「それも立派なサービス業だよ。むしろ接客より難しいんじゃないかな。子供相手に何かを教えるなんて貴重な経験だよ。接客なんか、普通に社会人やってたんなら、特段問題ないだろう」
「頑張ります」
「こちらこそ、よろしくね。早速明日から、頼めるかな」
明日から五月だ。確かに、稔としてはぎりぎりのタイミングだったのだろう。決まってしまえば、あとは働くだけだ。よろしくと言われたそばから、さっきまでの不安感はすっかりなくなってしまった。稔と働ける、それを考えるだけで、葉月は心が弾むのを感じた。
「はい」
立ち上がった稔の後ろについて、店の営業時間や設備の説明を受けながら、葉月はついその背中を見てしまう。幅の広い、うっすらと盛り上がった肩や引き締まった腰回りに目が奪われる。喫茶店経営者とは思えない、端正な体つきだった。知り合ったばかりの男性にそんな視線を向けていること自体褒められたものではなかったが、自己管理をちゃんとしているのだな、という場違いな思いにとらわれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます