第7話
喫茶店の内側といっても、それは一般家庭の台所の延長線上に乗るくらい、簡素なものだった。樹脂でコーティングされた調理台と三口のコンロ、そして冷蔵庫が二つ。稔の話によれば、ひとつはコーヒー豆専用の小さい型で、もうひとつはその他の食材が入っているらしい。こちらも家庭用とさして変わらない造りの筐体だった。
「どうしても匂いがね」そう言う稔は、コーヒー豆が入っているという小型の冷蔵庫を開けた。ほのかに香るそれは、鼻腔の上あたりを優しく包み、たちまち空気を変えてしまう。
「コーヒーって感じですね」
蓋が金属で固定されている、見るからに頑丈そうなガラスの瓶には、深く煎られたコーヒー豆が詰まっていた。チョコレートのような光沢を浮かべ、ぷっくりと膨らんだ豆は、静かにその時を待っているようだった。
「コーヒーだからね」葉月の感想が可笑しかったのか、稔は目尻に皺を寄せた。「瓶に入れて密閉してるんだけど、それでも漏れてくる。コーヒーは周りを全て自分色に染めようとするから、こうして別けてるんだ」
コーヒーを指して稔の口から漏れた言葉が、葉月の中の湖へポトリと落ちる。水面に波紋が広がる。ひだが光を揺らし、下から眺める葉月の顔を揺らした。小さなさざめきのような波紋は次第に収束を始め、ひとつの虚像を結んだ。あまり思い出したくない過去の片鱗が、葉月の目の前に展開される。
大学二年の春、葉月はひとりの男と知り合った。
きっかけは塾講師のアルバイトだった。山手線の沿線を中心に、都内に三十校の教室を持つ、それなりに規模の大きな塾だった。特に中学受験に主眼を置いた進学塾だったが、それ故か時給もよかった。正確に言えば、時給しか目に入っていなかった。
子供は嫌いではなかったし、小学生相手なら楽勝だと楽観的に構えていた。採用に当たって学力試験があったのには面食らったが、内容は中学卒業程度のものだったし、面接はかえって形式的なもので拍子抜けしたのを覚えている。思い立ってから一週間も経たないうちに最初の授業の日を迎えた。
「まあ、習うより慣れろって感じで」
葉月が配属になったのは、自室のあるマンションからも近い、笹塚駅前にある教室だった。その前日に簡単な面談があり、先の言葉で全ての説明を終えた社員に「山瀬先生、文系ということですが、算数もいけますよね」と軽く尋ねられ、「算数くらいなら」と答えてしまったのが全ての始まりだった。
準備もほどほどに算数の授業についた葉月を待っていたのは、パーテーションで区切られた一畳程度のスペースに置かれた白い机と小さな椅子だった。
「あれ?」
ホワイトボードにうっすら映る自分の姿にきょとんとした顔を向ける。時間は過ぎているのに、生徒がいなかったのだ。
「すいません。遅刻、でしょうか」葉月は、その半個室の部屋番号が間違いないことを確認してから、社員や講師の詰めるフロアに恐る恐る入り、近くにいた講師のひとりに声をかけた。
「誰の授業ですか?」
その講師は授業のレポートを書く手を止めて、葉月に尋ねた。
「えっと、柳井しおりちゃんです」
講師は葉月の返事を聞きながら社員の机を振り返った。普段からそうなのか、授業前の申し送りをしていた屈強な男性社員の姿はなかった。
「あの子か。普段なら余裕を持って来てるはずなんですけど」
そう言って立ち上がると、社員の机の上を見回してから、フロアの先にある受付を覗き込み、そして葉月が確認した講師用の予定表を眺めて、「やっぱり」と呟いた。
「部屋が変更になってますよ。笹田室長、こっちを直すの忘れているみたいです」
「そうなんですか」
「最初の授業なのにすいません。滅多にあることではないのですが」
その講師は丁寧に詫びた。自分のことのように恐縮する彼、和樹との、それが出会いだった。
「コーヒーのことはおいおい」
瓶に視線を吸い寄せられていた葉月はそこで我に返った。稔が静かに冷蔵庫のドアを閉めた。
「……はい」
じわりと葉月の脳髄を侵食していた和樹の存在が静かに色あせていく。稔の言葉によって想起された和樹の面影が、コーヒー豆の残り香によって四散していくようだった。代わりに葉月の心に立ち上がったのは、もっと知りたい、そんな願望だった。深い森の空気にも似た、濃くも爽やかな伊吹が葉月の胸を刺激したが、それはすぐに厨房の雑多な空気に混ざり、区別がつかなくなった。
「とりあえず、明日からは十一時に来てくれればいいから。営業時間内の勤務でお願いできればと。他に何か聞きたいことはある?」
冷蔵庫を背に立つ稔に改めて尋ねられると、葉月はなんと答えればいいのかわからなくなった。訊きたいことはたくさんあった。けれどそれは今、アルバイトの話をしているこの時に尋ねていいことではなかった。
「大丈夫です。明日から、よろしくお願いします」
明日から、稔と一緒に働くことができる。憧れだった存在に一歩近づいたように感じ、葉月は自然と笑顔になった。
朝は気が重い。目が覚めても、なかなかベッドから起き上がる気分になれなかった。怠惰だと思いながら、仕方がないのだと自己弁護をする。克則と鉢合わせするのが嫌なのだ。朝食の準備を篤子に任せているのも、睡魔のせいにして克則を受け流すためだった。克則も、取り立ててこちらの様子を伺うことはなかった。奇妙なバランスの上に成り立つ父と娘の関係は、好転の兆しも悪化の見込みもない。ドア越しにわずかに聞こえる包丁の音が、朝の不安定な空気をかき回した。
しばらくそうして外の様子に注意を払っていると、玄関の扉が開く音がした。革靴の擦れる音で、克則だとわかった。教師の朝は早い。七時過ぎには学校に着き、生徒を迎える準備をする。学校に通っていた当時は考えもしなかったが、社会人として働き始めてようやく、その大変さがわかった気がした。
ドアをノックする音に顔を上げると、薄く開いたドアの隙間から篤子が顔を覗かせていた。
「朝ごはん、食べる?」
「うん」
篤子は葉月と目を合わせると、すぐに顔を引っ込めた。ベッドから起き上がり、部屋着に着替えた。食事をとり、部屋に戻る。殺風景な部屋は普段と変わらないはずなのに、どこかよそよそしく感じた。緊張している。それを自覚できるうちはまだましだ、と自分に言い聞かせる。
スマートフォンを手に取るが、何かをする気にはなれなかった。本棚の前に立っても何も感じない。手持ち無沙汰なのに何も手につかなかった。すると今度は、唐突に服装が気になった。そういえば、昨日は服装のことを何も言われなかった。制服があるのだろうか。それならばサイズくらい訊かれるだろう。やはり私服のまま店に出るのだろうか。ワンピースはふさわしくないだろうし、デニムパンツも違う気がする。そこまで考えて、葉月はそれらしい服を何ひとつ持っていないことに思い至った。
慌てて一階に降り、篤子を呼んだ。
「着ていく服? なんでもいいら」
「そんな訳にいかないよ。どうしよう」
アルバイトの何時まで三時間。今から服を買いに行こうか、けれどアパレルショップの開店時間はどんなに早くても十時だろうし、ショッピングセンターに行ったとして、ふさわしい服があるとも限らない。
葉月はちょっとしたパニック状態に陥った。そもそも昨日も一昨日もデニムにカットソー、そしてカーディガンという出で立ちで、あまりにも没個性的だった。
リビングの扉の前で右往左往していると、見かねた様子で篤子が動いた。
「ちょっと待ってて。探してくるから」
篤子はゆったりと二階に上がっていった。その後ろ姿はやけに楽しそうだった。篤子を見送った葉月は、所在なくリビングのソファーに座った。窓の向こうでは、庭の柿の木が日差しを反射して光っていた。五月の麗らかな陽気をよそに、葉月は取り乱した心をじっと覗き込んだ。
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