第8話

 意識をしすぎているのは自分でもわかっていた。篤子の言う通り、服装などなんでもいいはずなのに、ふさわしいというのは結局のところ稔に自分をよく見せたいという気持ちの表れでしかない。そんな子供染みた感情に支配された自分に羞恥心を覚える。


「これは? チュニックと合わせてもいいだろうし」篤子がリビングに戻ってきた。プリーツの入ったワイドパンツを葉月に差し出す。「きっと似合うと思うけど」


 篤子からワイドパンツを受け取ると、葉月は一旦自室に戻った。衣装ケースからクリーム色のチュニックを取り出し、ベッドに上下を並べてみる。ワイドパンツはこれまでほとんど履いたことがなかった。あまりイメージが湧かないが、こうして眺めると、悪くないとも思えてくる。


「喫茶店って、こんな服装でいいのかな」

 部屋着を脱ぎ、篤子から借りたワイドパンツに足を通した。思いのほか腰回りのサイズもちょうどいい。篤子が痩せているのか自分が太ったのか、あまり考えたくなかった。チュニックを被り、姿見に自分を映した。


「着れた?」

 ノックの音と一緒にドアの向こうから篤子が言った。

「うん、大丈夫」


 緩やかに広がった裾から覗く足首が頼りなさげに佇んでいた。靴はヒールのないものを選べばいいだろう。チュニックとの相性も違和感はない。そんな葉月の姿を、ドアを開けた篤子が興味津々といった顔で覗き見ていた。

「私もまだまだ捨てたもんじゃないら」篤子がはにかむように目を細めた。


 上下揃った自分の姿を見ているうちに、ふさわしい服装を、という強迫観念は薄らいでいった。昨日までとは違う自分がいる。目的を失い、泡のように漂いながら湖の底で煩悶を繰り返していた自分。過去から逃げ出し、自分から背を向けていた日々。それも今日で一区切りだ。新しいこと、新しい場所、新しい人、新しい自分。雑多に広がる意識の裾野を見渡し、葉月は篤子に向き直った。


「お母さんを捨てる人なんていないよ」

「どうだか……。そのズボンだと自転車は危ないから、電車で行きなさいよ」

 母親の顔に戻り、篤子は部屋を出ていった。葉月はスマートフォンを掴み、ベッドに腰を下ろした。電車の時間を調べると、十時過ぎには家を出るべきだと告げられた。最寄りの駅から稔の喫茶店までは歩くとそれなりに時間がかかりそうだった。


 歩くとなれば汗もかくだろうし、ある程度早く出かけ、ショッピングセンターで時間を潰した方がよさそうだ。そこまで考えて、葉月はクローゼットから小さめのショルダーバッグを取り出した。机に投げ出したままの財布と化粧ポーチをバッグに詰め込み、タオル地のハンカチを衣装ケースから選び取った。


 多少早くとはいっても、まだ八時半だ。ショッピングセンターも営業が始まっていない。葉月は仕方なく、リビングに降りた。

「洗濯終わったから、干すの手伝って」


 篤子は普段と変わらず、そうして葉月に接してくれる。どんな時でも味方でいてくれる篤子には、本当に頭が上がらない。

「うん」

 洗濯機のある脱衣所へ歩く。廊下の明かりが眩しく、洗剤の香りと相まって、葉月は鼻がむず痒くなった。



  **



 住宅地の一角になる喫茶店だからか、平日にも関わらず客足は途絶えることがなかった。ドアに付いているベルがからんと鳴るたび、葉月は人数を確認し、空いている席へ案内する。近所に住んでいる人がほとんどだろうが、幸いというべきか、今のところ、葉月も知っているお隣さんや、少女時代の知り合いが訪ねてくることはなかった。


 カウンター席が五、二人掛けのテーブルが八というのが稔の店の全てだった。窓は斜めに枠取られたガラスがはめ込まれていて、そこから差し込む光が店の奥まで温もりを伝えていた。その雰囲気は、高校生の時に通っていた時と変わることがなかった。窓際の席に陣取り、稔を盗み見る沙也加の顔を眺めていたあの時も、この優しい空気に惹かれていたのは間違いなかった。


 しかし、それも客としてこの場にいるからこそ体感できることなのだ、と葉月は思い直した。

 喫茶店での仕事というのは、思っていた以上に時間との戦いだった。飲み物にせよ食べ物にせよ、注文を受けたらすぐに準備を始めなければいけない。稔が忙しそうだからと注文と通すのをためらっているうちに、次の客が手を挙げ、そうして溜まってしまった注文をさばくために稔の手は忙しなく動いていた。


「山瀬さん、これ四番にお願い」

 稔は短く葉月に指示を出し、すぐに厨房へ戻ってしまう。まだ番号とテーブルの紐付けが曖昧な葉月は、注文を受けた時の記憶を頼りにカウンターとテーブルを往復した。


 昼時を迎え、店はいよいよ活況になる。客は口々に思い思いの注文を入れる。ひとりでさばく稔の手元には伝票が停滞し、焦れた客のたばこの煙が葉月の喉をざらつかせる。初日はもう少しゆっくりできると思っていた葉月は、店の空気を堪能することもできず、その一部として振る舞うことに必死になった。


「お待たせしました。ごゆっくりお過ごしください」

 開店前にある程度定型文を稔から教わっていたものの、一字一句違えずに言うのは難しい。うろ覚えの部分を自分の言葉に置き換えてしまい、もはや原型がどのような内容だったかは不明だ。間違ったことは言っていないだろうと客の顔を見て胸を撫で下ろし、すぐに厨房に続くカウンター脇に控える。


 つい数時間前に、篤子と顔を付き合わせて服装について侃々諤々言い合っていたことが嘘みたいだった。結局、稔は葉月の姿を見ても特段何も言わなかった。どんな服装でも構わない、とも言われていないのだから、何かしら反応があるかと思っていたのに、稔は挨拶のあと、「早速だけど、もうじき開店の時間だから、今日はとりあえず、お客さんから注文を聞いて、それを僕に伝えてもらうのと、コーヒーとかサンドウィッチを運んでもらうだけでいいから」とこともなげに言い、要所要所のセリフを二、三葉月に伝えると、ドアにかかったプレートをひっくり返した。


 服装のことで頭がいっぱいだった葉月は、そこで初めて、接客をする、という事実に直面した。稔の『接客なんか特段問題ないだろう』という言葉にすっかり油断し、間に挟まった『普通に社会人やってたんなら』という前提が抜け落ちていた。


 アイスコーヒーを運びながら自虐的な思いに駆られ、足元が疎かになったのがいけなかった。わずかな床の凹みに足を取られ、バランスが崩れた、と思った時には、傾いたお盆からグラスが滑り落ちた。


 甲高い音がして、葉月は慌てて周りを見渡した。コーヒーが床面を濡らし、薄い皮膜のように広がっていく。

「申し訳ありません」誰に言うでもなく声を出し、葉月はお盆を胸に抱いたまま振り返った。カウンターから顔を覗かせた稔と目が合う。稔は顔色を変えず「足元は大丈夫ですか?」と周りの客に声をかけながら、葉月に近づく。その手にはすでにモップが握られていた。


「ここはやっておくから、カウンターの料理を七番に持っていって」

 稔は穏やかな声で言うと、ガラス片もろともモップで片付け始める。葉月は言われるがまま、皿に盛られたサンドウィッチをテーブルに持っていった。


「ありがとう」

 初老の男性が読んでいた文庫本から顔を上げた。柔らかい声に聞き覚えがあると思えば、以前克則を抱えて連れてきた檜山だった。向こうはこちらに気づいていない様子で、すぐに視線をサンドウィッチに落とした。


「ごゆっくりお過ごしください」

 軽く頭を下げて踵を返す。稔はまだ体をかがめ、葉月が落としたコップの片付けに追われていた。受けていた注文は今のサンドウィッチが最後だった。葉月は稔の傍に近づき、「すいません」と小さく声を出した。


 稔が振り返り、そんな葉月に笑いかけた。「ちょうど終わったよ。ありがとう」稔は屈託なくそう言うと、厨房の奥に戻っていった。葉月は息を吐いた。大事にならなくてよかったと思う一方で、自分は普通に働くこともできないのか、と忸怩たるものを感じた。せっかく稔のそばにいるのに、これではただの足手まといだ。

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