第5話

「話せなかったね」葉月は隣で寝転がる沙也加に意地悪な視線を向けた。

「いいでしょ。今日はちょっと混んでたし、遠かったの」

「今日も、じゃないの?」

 見守るそぶりを見せながら、恋敵でもある沙也加に、葉月は茶化すようなことしか言えなかった。


「それは言わない約束」

「そんな約束した覚えないけど」葉月は膝を折り、顎をつけ、小さく息を吐いた。梅雨の合間の晴れた日、気まぐれに吹く風が葉月の息を取り込み、すぐ脇を吹き抜けていった。


「葉月は前からここに来てたの?」

「来てたってほどじゃないよ。中学生の時の通学路のそばだったから。たまに寄り道してただけ」

 寝転がる沙也加に倣い、葉月も横になった。梢の端から見える空は青かった。雲の歯切れがゆっくりと流れていく。


 遠い。葉月にとって、梅雨の鬱々とした季節の向こうに控える夏がまさにそれだった。夏を遠く感じるのは、自分が田舎に住んでいるからではないのか、そう思っていた。広い世界に出れば、夏ももっと身近に感じることができるのではないか。

「寄り道にしては快適だよね」

 通り過ぎる風は確かに心地よく、沙也加の言葉に葉月も頷いた。それでも、心のどこかではその快適さを疎んじている自分がいた。欲しいのは快適さや安心感ではなく、好奇心をくすぐるような体験だった。


「でしょ」そうして嘯く葉月のことを、沙也加はどう思っていたのだろう。

「ごめんね、付き合わせちゃって」沙也加が唐突に言い、体を起こした。殊勝に両手を合わせ、ぺこりと頭を下げた。葉月の中で燻る焦燥とは無縁の無垢な瞳に、その時だけは感傷に浸っていた自分が恥ずかしくなった。


「いいの。二人でいる方がいいもん」照れ隠しに乗じて漏らした素直な気持ちを、沙也加は飄々と受け流した。

「出た、妖怪文学少女」





 あの頃から、自分は何も変わっていない。湖の底からぼんやりと透ける景色を眺め、季節をやり過ごしてきた。その代償が、今の自分なのだ。沙也加が巻き起こした風が湖面を揺らしている。葉月はじっと膝を抱え、嵐が落ち着くのを待った。

 河原から景色を見ることなく眺めているうちに、いよいよ日差しが弱くなり、空が暖色に移り変わっていた。パーカーのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。メッセージアプリの通知がロック画面に表示されていた。パスコードを入れてホーム画面を開く。メッセージは篤子からだった。


《出かけてるの? 帰りにひじき買ってきて》

 文字と一緒に、有名なアニメのキャラクターが土下座をしているスタンプが送られてきた。いつの間にこんなことを覚えたのだろう。葉月はそれに〈うん〉と返し、さらに同じアニメキャラが空を飛んでいるスタンプを送信した。急いで帰ります。胸中にそう呟きながら、葉月は立ち上がった。しっとりと濡れた腿のあたりを掌ではたき、サイクリングロードへ戻った。スーパーはどのあたりだっただろうか。地図アプリを立ち上げて、葉月は家路についた。





 目指していたスーパーは、パチンコ屋に変わっていた。

 大学進学を機に浜松を出てから七年、その歳月は、遠目には昔のままだと思えても、確実に景色を変える力を持っていたのだ。出がけに見た水田も民家も、もしかしたら所有者が変わっているかもしれない。記憶だけが置き去りになっている。知ろうとすればするほど、現実は想像と違う姿になる。葉月が淡い恋心を抱いていたあの喫茶店の男性も、もしかしたら軽薄な男だったのかもしれない。


「時間が経てば、変わることもあるでしょ」

 帰りが遅いとむくれる篤子に事情を説明すると、軽い声が返ってきた。葉月は頼まれていたひじきを渡しながら、「そうだろうけど……」と声を落とした。

 さして気にしていない風の篤子は、そのままひじきを冷蔵庫にしまった。


「使わないの?」

「これは明日のお弁当用。後で油揚げとか大豆とかと一緒に煮るから、手伝って」

「明日も?」

「お父さん、頑張ってるんだから、このくらいやってあげなくちゃ」

「今日だって何時に帰ってくるかわからないのに」


 昨日の夜も遅くまで会合をしていたのに、今日も明日も終日準備というのは、もはや仕事だ。

「本番まであと四日だから。裏方も大変みたい」篤子はそうやって日々の出来事をこなしていく。裏方というのは、浜松まつりにおける克則の役割を指しているのはもちろん、そんな克則を支える篤子自身をも示しているように感じた。大変だと言いながら楽しそうに暮らす篤子の横顔を見ていると、主婦として、夫を支える妻として、そういう生き方を選んだひとりの女性の気概を感じた。


 自分にそんな人生は真似できない。会社の仕事さえろくにできなかったのに、朝から晩まで誰かのために何かをするなど、できるとは思えなかった。

「大変だろうけどさ」

 それ以上、克則のことを考えていたくなかった。父親という存在は、娘の自分にとっては最も近い異性であって、最も遠い存在でもある。何の目的もなく実家に帰ってきた自分を克則がどう思っているのか、それは想像することさえ困難なことだった。


「まあ、お父さんのことは放っておいて」篤子はそれまでの良妻賢母然とした雰囲気を一新し、途端に克則を切って捨てた。放って置かれた克則の行方を探すまもなく、「ご飯食べましょう」と篤子が言うものだから、葉月はもやもやとした気持ちのやり場を失い、曖昧に頷いた。


 今日のメニューは回鍋肉だった。遠くまでひじきを買いに行かせたことに負目があったのか、篤子から夕食の準備を免除された葉月は、リビングのソファーに座り、テレビをつけた。十八時半を周り、テレビはどのチャンネルも静岡県の放送局が製作した情報番組を流していた。どの番組も内容は似たようなものだ。高校生の時に観ていた番組を見つけ、リモコンをテーブルに戻す。


 ちょうどスタジオから中継に切り替わるところだった。見たことのある建物が映し出される。それは篤子の働くショッピングセンターに違いなかった。

「お母さん、知ってた?」葉月はテレビのボリュームを上げた。


「テレビが来るのは聞いてたけど、中継だったのね。シフト入れておくんだった」篤子は全く残念そうではなかった。


 画面の中では、レポーターが店の出入り口のそばで明日の天気を簡単に説明していた。明日も晴れるでしょう、とお決まりのセリフで締めたあと、レポーターは『さて、今日は浜松で今話題のお店を紹介します』と笑顔で言い、半身をカメラに向けたまま、出入り口へ歩き始めた。カメラがその姿を追い、自動ドアに近づいていく。


 葉月は、そこで身を乗り出した。


 一瞬のことだった。レポーターとすれ違うようにひとりの男性がドアから出てきた。どきりとした。時間にすれば数秒の間に、葉月の頭の中では記憶の中の人物と一致したことを示すアラートが鳴り響いた。


 メガネをかけていたものの、その爽やかな横顔は間違いようがなかった。シャツにバリスタのエプロンをつけた姿は、紛れもなくあの人だ。

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