第4話

 東京から浜松に帰ってきて、一週間が過ぎた。朝こそ篤子に家事を任せているものの、掃除をしたり洗濯をしたり、二人で忙しなく家の中をうろうろしていると、さすがに午前中でやることがなくなってしまう。

 篤子は週に四日ほどパートに出ていて、今日はその日だった。克則は朝からまつりの準備のために外出していたし、昼に篤子がパートに行ってしまうと、土曜の昼にひとり残された葉月は二階の自室に戻るほかなかった。


 最初の二日くらいで引越しの荷物はほとんど片付けてしまい、手持ち無沙汰な時間は想像以上にゆっくりと流れた。何もすることがないというのも不思議な気がした。


 東京で働いていた頃は、週末となれば恋人と過ごすか、はたまた学生時代の友人と遊びに行くか、いずれにしても何かしら予定があったし、そうでなくてもSNSなどを見ては好感を示し、暇があればコメントを返し、返され、そうして仮想空間でのやりとりで暇を弄んでいた。アカウントはいくつも持っていたが、浜松に帰ってくるにあたり、それら全てを削除した。


 その時の自分が嫌いになったわけではないし、あの頃の自分が醜いわけでもない。ただ、過去に引き戻されることを恐れていた。うっかり覗いてしまったら、惨めでどうしようもなかったあの頃の自分に魂を抜かれるような気がした。


 葉月は無意識に見つめていたスマートフォンを目から逸らし、静かに嘆息を吐いた。詮ない思考から顔を上げた葉月の目に、本棚が映った。

 今とは違い、高校から大学にかけて、葉月はよく本を読んでいた。好きな作家は何人かいて、古本屋で見つけるたび、少しずつ揃えていったのだ。そうして集めた本も、社会人になった年に全て実家に送ってしまった。


 文庫本の列を眺め、目についた一冊を手に取った。タイトルが気に入って買った本だったのを思い出す。葉月の好きな作家の、それはデビュー作だった。表紙を開き、文字を追った。

 隙間だらけの心に文章が染み込んでくる。澄み渡る空か、あるいは透き通った湖か、文字の端々に感じる静謐さが懐かしい。どうして、今まで忘れていたのだろう。大学生の時、何度も読んだ小説だった。


 多感な時期に母親を亡くした女性とその恋人の擦り切れるような会話、母親に対する贖罪の念、そして恋人の悲哀。母親が亡くなっていることを恋人に伝えることができない主人公は、鬱屈とした空気を彼氏にぶつけることもできず、もがいていた。


 読むほどに内容を思い出し、そして緩やかに物語は進んでいった。主人公のサナエは生物学を専攻する大学院生ということで、専門的な内容もちらほらと出てくる。葉月にはよくわからない描写でも、そこで生きる女性の懸命な姿には共感できた。物語の最後では、サナエは母親と向き合い、母の死を受け入れる決意をする。


 こういう人生ならよかったと思う。そう考えると、急速に気持ちが冷めていった。サナエに感情移入していたつもりが、いつの間にか彼女に先を越されていた。それも当然だ。無職の二十五歳が、小説の主人公にかなうはずがないのだ。

 小説の中の彼女は、自身の悲痛な運命と向き合うことで成長していく。そういう筋書きなのだ。そこには、当たり前だが作者の意図だったり思惑だったりがある。主人公や周りの登場人物の動きが有機的に絡み合い、ひとつのストーリーを形成していく。小説の主人公に嫉妬するわけではないが、それでも羨ましいと思う。どれほどの悲劇であろうと、少なくともセリフや行動が規定されているなら、どれだけ楽だろう。自分にはそんなものはない。いったい、明日は何をすればいいのだ。


 文庫本を持って立ち上がり、本棚にしまった。机に投げ出されたスマートフォンを掴み、持ち上げる。表示された時刻は午後四時ちょうどだった。何をするにも中途半端な時間だ。


 一階に降り、リビングへ入る。篤子はまだ帰っていない。傾いた日差しがリビングの窓から斜めに差し込んでいた。葉月はお茶を淹れ、ソファーに座る。クッションが適度に体を押し返し、腰から背中を均等に支えてくれているようだった。お茶の湯気を肺に吸い込む。本当に眠りそうになる。浜松から帰ってきて、思えば夕方のこの時間は毎日このソファーでうたた寝をしていた。篤子が「そこは私の場所」とヘソを曲げる程度には占領していた。


 さすがにこの状況がこのまま続くのは好ましくない。これではただの引きこもりではないか。刹那的に沸き起こった焦燥に背中を押され、葉月は勢いよく立ち上がった。

 湯呑みをシンクに片付けて、一度自室に戻る。部屋着を脱ぎ捨て、ジーパンに履き替えてパーカーをはおり、スニーカーを引っ掛けて家を出た。


 五月を間近に控え、空気はにわかに活気づいているように思えた。玄関前のアプローチを通り、門扉を出て右に曲がる。目的も宛もあるわけではなかった。とりあえず家を出たものの、今の葉月に訪れるべき場所はなく、訪ねるべき人もいない。家の近所を散歩して、帰りにコンビニに行くくらいしか思い浮かばなかった。引きこもりではないと自分に言い聞かせるためだけに、葉月は路地を抜けて通りに出た。


 目に入る遠い景色は、七年という歳月を感じさせなかった。線路を超えた先に広がる水田も、途中にぽつぽつと並ぶ民家も、記憶の中の姿形と相違なかった。東京に生活の軸足を移し、自分の道を見失った葉月にとっては、この場所は眩しすぎる。


 光を避けながら歩く。何も考えず左右の足を繰り出しているうちに、川沿いのサイクリングロードに入っていた。木漏れ日が葉月の頬や肩に当たる。夏にはまだ早すぎ、春というには暖かすぎるその中途半端さが、今の葉月にはちょうどよかった。


 サイクリングロードというだけあり、多くの自転車が行き来していた。幸い道幅は広く、自転車同士がすれ違ってもまだ余裕があった。しばらく、ぼんやりと歩く。風が穏やかに初夏の色をまとい、それが道路に映るまだら模様を密やかに揺らす。動きに合わせて道路に視線を沿わせると、前から近づく自転車が目に入った。

 葉月はその人の顔をちらりと見遣り、すぐに顔を伏せた。帽子を被る習慣がない自分を呪った。目立たないように、意識しないように、自分の存在を消すのに必死になった。


 沙也加は、あの頃とほとんど変わっていなかった。髪を明るい茶色に染めている以外は、高校生の時の面影を色濃く残し、その快活そうな笑顔を並走する男性に向けていた。沙也加が横をすり抜ける。風を切って走る車輪の音が耳に残った。


 葉月は振り返りそうになる自分を押し殺した。今ここで後ろを向いたら、それこそ浜松に帰ってきた意味がなくなる。そう思った。地続きであっても断絶した場所、それが葉月の故郷だ。沙也加に声をかけても、あの頃に戻れるわけではない。戻りたくても戻れないのだ。沙也加が地元で幸せを手に入れ、自分は東京で何ひとつ得ることができなかった。


 それだけのことだ。


 葉月はサイクリングロードを隔てる並木の間を通り、馬込川の堤防に出た。幅十メートル程度の川であっても堤防は高く、川面へと続く斜面には草が生え、背の低い常緑樹が点在していた。木の間から見える水面は太陽の光を反射していた。大きな白いサギが悠々と中州を歩いていく。幼い頃から、幾度となく通り過ぎ、時に立ち止まって眺めていた景色だった。


 その景色が、じんわりと歪む。潤んだ瞳が風景をぼかし、境界を曖昧にしていく。それが記憶と混ざり合い、川辺に溶け込んでいた沙也加の姿を呼び覚ませた。

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