第3話
篤子はきっちり一時間半後にやってきた。喫茶店でアイスコーヒーを飲み干し、篤子との待ち合わせ場所であるファストフード店に入って十数分。ほとんど手をつけていない紙コップを掴み、葉月は立ち上がった。
「お待たせ。買い物して帰りましょう」篤子は楽しそうだった。明るいグリーンのワイドパンツにサンダルを合わせ、揚々と食品売り場に向かう篤子の背中を見ていると、これは赤飯さえ炊きかねないとも思え、葉月はいそいそとその背中に声をかけた。
「何作るの?」
東京で暮らしていた時、たまの帰省は両親にとって特別な日だったらしく、寿司の出前を取るかホットプレートでステーキや焼肉になるか、だいたいはそのどちらかで、たまに両方の時もあった。実家に帰るたび、葉月はその後過酷なダイエットを強いられた。
今日からは、ここでの生活が日常になる。買い物かごをカートに乗せ、里芋や蓮根を手に取る篤子を盗み見て、葉月はその思いを強くした。
「筑前煮でしょ、それから天ぷらかな。昨日、筍を採ってきたの」
篤子の手料理は、だから久しぶりだった。篤子は煮物も焼き物も得意で、餃子さえも自分で作る徹底ぶりだった。それこそ、「お山がひとつ、もうひとつ」と妙な歌を口ずさみながら作ったそれは、スーパーの出来合いよりも遥かに美味しかった。
ひとしきり買い物が終わって駐車場に出ると、太陽はすでに西の空に沈んでいて、端の方が僅かに濃い赤色を呈していた。いつの間にか空は晴れているようで、いちばん星が明るく光っていた。そろそろと風が吹いている。
七年の間に、本当に色々なことがあった。それらを、葉月は全て東京に置いてきた。嬉しかったことも、悲しかったことも、面白かったことも、悔しかったことも、恥ずかしかったことも、全ては遠い日の記憶だ。記憶はいずれ薄れ、新しい自分に取って代わる。そうでなければいけない。風に揺れる篤子の後れ毛を眺めながら、葉月は思った。過去と決別するために、葉月はこの場所に帰ってきたのだ。
自治会の会合というものは途中から必ず飲み会に変容してしまうらしい。夜遅くに帰ってきた父、克則は、自治会長としての威厳を保つのに躍起になったのか、注がれた酒は飲まなければいけないという強迫観念に支配れていたのか、すでにひとりでは立つことも難しい木偶の坊と化していた。
「篤子さん、すまないね。いつも」克則の腕を担ぎ、ひとりの男性が玄関まで入ってきた。すまないというのは、出迎えてもらって恐縮という意味なのか、それとも前後不覚になるまで飲ませてしまったことに対する罪悪感を示しているのか、判然としない。
「こちらこそすいません。主人にはよく言って聞かせますから」篤子はまるで子供のいたずらを咎められた時のようなセリフを言う。体を起こした男性が笑いながら出て行くと、篤子と葉月は揃って溜息をついた。
「お父さんっていつもこうなの?」
「こんなもんだら」
二人でリビングのソファーまで運ぶ。昨年新調したというそのソファーは、篤子曰く寝心地がいいらしい。そんなところに寝かせずに寝室まで行った方がいいのではないか、と葉月は不安になる。
「お父さん、起きてくださいよ」篤子が肩を揺らす。克則は「おお」と呻くだけで、そのまま寝息を立て始めた。
「しょうがない人」そう言う篤子はどこか楽しげで、水の入ったコップをテーブルに置くと、克則のそばを離れてしまった。
「このままで平気なの?」
「朝になれば起きるら」
あっけらかんとしたものだと葉月は呆れた。その一方で、父親の幸せそうな顔を見ていると、心配しているこっちが損をした気分になる。篤子を追い、リビングとひと続きになったダイニングのテーブルに体を寄せた。篤子は冷蔵庫の奥から缶ビールを取り出していた。差し出されたビールを受け取り、プルタブに指をかける。
葉月は酒が強い方だった。これは間違いなく母親である篤子の遺伝子を受け継いだ結果だ。
「お父さん、心配してた」
葉月がビールを口に含むのを待っていたように、そこで篤子が口を開いた。葉月はビールの喉越しを味わう余裕をなくし、その言葉はビールと一緒に胃袋に流れ込んだ。
「そっか」
仕事を辞めて帰ってきたことは、篤子を通じて克則にも伝わっている。けれどそれを本人に直接言ったことはなかったし、克則自身がどう思っているのか、葉月は知らなかった。
「怒ってた?」
「呆れてた」篤子はくすくすと笑う。その時の克則の顔でも思い出しているのだろう。「開いた口が塞がらないって、あのことを言うのね」
「それは私も見てみたかった」
二人で目を合わせ、ひとしきり腹を抱える。笑いに誘われて口をつけたビールの苦味が喉に絡むのは、心にもないことを言って自分をごまかした副作用なのかもしれない。そのまま黙り込んでしまった葉月を横目に、篤子が話題を変えた。
「さっきお父さんを運んできてくれた檜山さん、あれでお父さんと同い年なんだって」
「そうなの? だいぶ若く見えた」
「ね。農家のご主人なんだけど、むしろ経営者みたいなの」
「会社ってこと?」
農業の法人化の動きは、なんとなくニュースで見聞きしたことがあった。新しくて古い、一次産業の発展はしかし、葉月には遠い世界の出来事だった。
「今は、ただ畑を耕して苗を植えてってだけじゃダメみたい。色々大変そうなのに、あんなに元気なんだから、きっとそれが生き甲斐なのね」
篤子は言いながら、リビングの方を見ていた。克則はどうなのだろう、と思っているのだろう。
「お父さんも、きっと大変だよ」
働くというのはそれだけで苦労の連続だ。わずか三年、働いた期間は短くても、それくらいはわかっている。そして、それがいかに自分に合っていなかったのかということも。これだけ多様な働き方が推奨される時代になっても、結局は組織のしがらみから逃れることはできない。それがどれだけ社会の役に立っているか自覚する時間はなく、ひたすら目の前のタスクをこなすことだけで日々が忙殺されていく。
「そうね。でもお酒はもう少し控えてもらわないと」篤子は少し笑い、二本目の缶ビールを手に伸ばした。
「説得力がないよ」葉月は笑う。
「東京は楽しかった?」篤子が尋ねる。ビールの飲み口に唇を当てたまま、その大きな瞳が葉月を覗き込んでいた。
「楽しかったよ」
自分の言葉に嘘はなかった。楽しかったかと聞かれれば、楽しかったと答える。それは自然なことだ。楽しかったことがなかったわけではないのだ。どれだけつらいことばかりだったとしても、それを篤子に言うことはできなかった。
ずっとそうだった。大学に入ってからは、相談らしいことはしたことがなかった。勝手に東京で就職して、勝手に会社を辞めて、勝手に帰ってきた。篤子はそんな自分を笑顔で迎えてくれたのに、自分はその笑顔に報いる資格もなく、ただ自分の気持ちを秘匿する道を選んだ。
「そう。私も一度でいいから都会で生活してみたかった」
「別に、都会だから楽しいってことじゃないよ」
「それもそうか……。しばらくはゆっくりしていなさい。焦ることはないから」篤子はそう言って残りのビールを喉に流し込んだ。焦るなと言われて焦らない人間はいない。篤子がそこまで見越しているとしたら策士なのだろうが、そんなことはないだろう。大方、家事を手伝ってもらえて楽になるわ、くらいにしか思っていないのだ。それでもいい。社会復帰をするまでは、それも悪くはないだろう。
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