第25話
沙也加と店で再会して以来、窓際の席が二人の定位置になった。沙也加は仕事終わりに立ち寄ることもあれば、土曜日の昼間に訪れることもあったし、自分がシフトに入っていない時でも、待ち合わせと称してこの店に二人で顔を出すこともしばしばだった。
稔の様子を見る限り、七年前に告白してきたのが沙也加だとは気づいていないようだった。沙也加もそのことをことさら店で話すことはなかったし、稔にとっては突風にも似た出来事だったはずだ。それを寂しいとも悲しいとも思わない。時間が経ち、大人になっていく。その過程がリアルに感じられるのは、自分もまた、その道を歩んでいるからなのかもしれない。
「すいません」
稔の気遣いに、葉月はますます恐縮してしまう。沙也加に「ほらほら」とせっつかれ、バッグからファイルを取り出す。先週の会合の議事録を取り出している間に、稔は通路を挟んだ向かいの席に腰掛け、体をこちらに向けていた。
「まつりのこと、私なりに色々考えてみたんです。小さな集落のおまつりだけど、地域振興の柱なのかなって。だから、もっと宣伝に力を入れてもいいんじゃないかって」
「最初から飛ばしてるね」
稔はいつもより親しげだった。仕事ではない、と稔は言っていた。そういう風に役割や立場によって感情をコントロールする術を知っているのだろう。社会人ならばそれも当然なのかもしれない。
「そうかもしれません」それができない自分は、だから誰にも認められず、失敗ばかりするのだろう。「婦人会で話してみたんです。お金もほとんどかからないし、動画を作って、それを宣伝用の素材にするのもいいんじゃないかって」
軽い思いつきのはずが、何か壮大なことでもしようとしているみたいだった。物語とは違うのだ。あの小説、最後は壮大なサプライズが起こった。主人公が化かされるタイプのどんでん返しは、読んでいて驚きもあり、充実感もあった。自分の人生に、そんなものはない。
「それを会合の場で言うあたり、山瀬さんらしいというか。山瀬さんにはいつも驚かされる」
「そうですか?」
「だって、ここに初めてきた時もそうだったでしょ? アルバイトがしたいって。殊勝な人だなって」
「それは、色々と事情がありまして」
まさか、テレビで稔を見かけたから、とは言えない。
「これって思ったことに一生懸命になる、それは悪いことじゃない」
「色々、ねえ」
陽気な稔と陰気な沙也加に挟まれて、葉月は苦笑いを浮かべた。
「衝動的、だったと思います。今回も。でも、まつりにとってマイナスになることもないと思うんです」
「まあ、新しいことっていうのは、なかなかね。しかも動画をネットに上げるのは、感覚的に抵抗があるんだろう」
「そういうことも、一応考えてたんですけど、その手前で力つきました」
「篠崎さん、すごい剣幕だったもんね」
「でも、やっぱりやりたい。そういうことでしょ?」
「はい。ツテがあって、機材はタダで貸してくれることになってて。動画サイトのアカウントを作るのは無料だし大した手間ではないですし、まつりのことを、もっと広く知ってもらうことができれば、きっと……」
それに続く言葉を、口にすることはできなかった。それは、あまりにも独善的だった。
「目先のことは、正直どうにでもなるさ。大事なことは、山瀬さんがまつりをどう捉えているか、ってことだと思う」
「どうって」
「伝統行事だから、毎年のことだから……。そういう意識なら、新しいことをやろうとしても、多分うまくいかない」
稔の声は思いの外硬く、多分と言いながら、断定に近い響きがあった。
「核家族化の進行がコミュニティーを分断して、時間が風習や文化を破壊している。そういう意見は、山瀬さんも三輪さんも、聞いたことがあるかもしれない」
「それは、なんとなく感じています。婦人会も、二十代は私たちだけで、三十代の人もほとんどいなくて」
葉月の返答に、稔は僅かに目を伏せ、頷いた。
「まつりには由来があって、それには意味がある。豊穣に感謝するとか、一年の息災を祈るとか。そういう想いを繋げていく。そうして人の気持ちを、世代を越えて結ぶものなんだ」
稔の言葉には、これまで感じたことのない重さがあった。畑を気にかけ、太陽と野菜を見守っていた時とは別の、切迫した何かがそこにあった。
「二人ともまだ若いから、まつりの雑用とか、色々押し付けられてる部分はもちろんあるだろうけど、形のないものを受け継いでいくことで、人の歴史は作られていく。それを忘れないでほしい、っていうのが、僕の気持ちかな」
「受け継ぐことで作られる歴史、それって——」
学生時代、出版系の仕事に抱いていたイメージに、それはよく似ていた。文字が歴史を紙に記す技であるなら、文化は歴史を心に刻む術なのだろう。葉月の中にも、それは確かにあった。お囃子の旋律、ラッパの調子、提灯の灯り。どれだけ離れても胸の中に息づいているもの——。
そうして記憶に刻まれた歴史を、今度は自分が誰かに伝えていくのだ。湖に舞い降りた感慨が、波紋を広げていく。その波の欠片の一つひとつに、幼い頃の自分の姿が映った。
篤子の手を握り、克則の背中を追う。そうして連れられたまつりの喧騒が葉月を追い立てる。背中に字を表す文字をあしらった法被をはおる父親の姿は、いつにも増して大きく、葉月はその姿が好ましかった。
小さい頃は、その法被を着るのが楽しみだった。夜に外を歩いていても、それを着ていれば怖くなかった。母と並んで通りに立っていると、遠くからお囃子が流れてくるのが聞こえた。太鼓と笛の協奏が暗闇から華やかさを連れてくる。
「私にも、できますか?」
人の歴史を心に刻む。それは文章を綴るよりも難しい。そのプロセスは、どう考えても楽な道ではないだろう。今も、克則はその重責を背負い、まつりを成功させるために、来年も再来年も続けられるように、茨の道を歩んでいる。あの時単純に憧れた背中には、想像もできない重荷が背負い込まれているのかもしれない。
「山瀬さんが感じたことを、そのままやれば大丈夫」
「そうだよ。そんな風に思い詰めることないって」
稔と沙也加が代わる代わる励ましてくる。葉月には、それが暗い湖を照らす月明かりのように輝いて見えた。まっすぐに自分を信じてくれる光。それはオーロラのような光のベールを揺らせ、葉月の髪を撫でる。
どこかで見たはずの、どこかで触れたはずの光は、しかし葉月が手を伸ばそうと、するりと指先から溢れてしまう。自分にはまだその光を手にする資格がないのだ。何が足りないのか、葉月にはすぐにわかった。
「怖いんです。これまでずっと積み重ねてきたものが崩れるのが、怖いんです」
伝統を受け継ぎ、次の世代に繋げる。それは言葉で表現するのは容易くても、実行するのは困難を極めるだろう。克則と同じようにはできない。迷い、つまずき、戸惑い、立ち止まってばかりで、一歩を踏み出すことさえできなかった。感じたままに動いて、また失敗したら、克則のいる家には帰れない。
稔と沙也加はしばし互いを見つめ、そして揃って葉月に向き直った。不安と心配を綯い交ぜにした瞳が揺れる。
一度は光の届いた湖底に、再び恐怖という澱が漂い始める。水が淀んでいく。自分でも判然としない心のありように、葉月は言葉を失う。心を晒し、傷つき、湖に逃げ帰る。その繰り返しの中で、自分は何を得たのだろう。
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