第24話

 篤子に呼ばれ、稔が畑に入っていく。トマトの区画で、稔が腰をかがめる。間引きする芽を示しているのだろう。檜山もナスの畝に入り、同じように参加者へ指示する姿があった。どれを取れば収穫に寄与するのか、そういう判断は素人にはなかなか難しいらしく、参加者はとにかく檜山や稔が指差した芽を摘むのがやっとの様子だった。


 当然ながら葉月にその慧眼があるはずもなく、ただ畑の隅でことの成り行きを見守るしかなかった。目は意識せずとも稔と篤子の間を行き来し、そして篤子がしきりにこちらを気にしているのもわかっていた。何か言いたげな目がこちらを向く寸前でかわす。それを繰り返すうちに、作業は終わりを迎えた。


「お疲れ様。食事の準備をしようか」

 最初に農業教室に誘われた時は、簡単な食事と言われておむすびやサンドウィッチを想像していたのだが、主に檜山が用意するそれは、ある時はボルシチだったり、またある時はパエリアだったり、とても無料で振舞われる食事とは思えないほど、本格的な料理だった。


 朝から仕込んでいるというそれらの料理は等しく美味しかった。葉月は、厨房のある事務所裏の檜山の別邸に上がり込み、キッチンから鍋や食器をカーゴに乗せて畑まで運び込んだ。

「今日は水餃子ですか」


 プリッと照りのある餃子が透き通ったスープにたゆたう姿は、ひどく空腹感を誘う。生徒は花に誘われるミツバチよろしく鍋の周りに集まる。そのひとり、佐々木も鍋を覗き込み、破顔している。その横顔は今朝顔を合わせた時とは全く違うものだった。

「力になれなくて……」


 座学の前、佐々木夫人が殊勝な様子で話しかけてきた。

「とんでもないです。準備が足りなかった私が悪かったんです」

 会合の時は、佐々木が口を挟む余地もなく篠崎にやり込まれてしまった。応援してくれた佐々木に、葉月は恐縮してしまった。そうして気にしてくれるだけで葉月は救われた気持ちになった。本当は、そんな佐々木の想いに早く応えたかった。やりたいことは間違っていないはずなのだ。一体何が足りないのか、それが葉月にはわからなかった。


 結局、葉月はあれからずっと胸の中にくすぶっている疑問を飼い慣らし、今も水餃子を参加者一人ひとりに配って歩くことで誤魔化そうとしていた。

「ありがとう」

 そうやって口々に礼を言われるたび、ここではない、別のところからその声が聞こえたらどれだけいいだろう、と思うばかりだった。

 ひとしきり配り終わった頃、早くも食べてしまったのか、空の容器を手に篤子が近づいてきた。


「葉月も食べたら?」

 鍋のそばに腰を下ろしていた葉月の隣に座る。

「私はあとで食べるからいいよ。まだたくさんあるから、お母さんこそ食べれば?」

「もうお腹いっぱい。外で食べるご飯って本当に美味しくて困っちゃう」

「檜山さん料理上手だもんね」

「誰かさんとは大違い」そうして朗らかに笑う篤子は、日差しに目を細め、畑に視線を転じた。


「確かに」

「私の料理、そんなに美味しくない?」

 冗談にしては笑えない。

「それは反則だって」

 呼吸が乱れる。絡み合う問題の根源は、やはり克則のことなのだ、と体が知っていた。掌に滲む汗が不快だった。

「たまにはいいでしょ。それより、今日は歩いてきたんでしょ?」


 寂しそうに顔を伏せた篤子は、そこで思いついたように話題を変えた。

「うん。雨降ってたし」

 ただでさえ朝が早いのに、雨で自転車に乗れなかった今日は、まだ薄暗いうちに家を出ることになった。夏至をすぎた頃で、さすがに真っ暗ということはなかったが、夜とは違う静謐さと体にまとわりつく湿気が葉月の神経を擦り減らした。晴れたのはいいが、今度はこの炎天下の中歩いて帰ることを思うと、別の意味で気が滅入る。


「お父さんに迎えに来てもらう? 餃子好きだし」

「冗談」

 篤子の声が軽くなかったら、そうして受け流すこともできなかったかもしれない。

「トマトとナスって、一緒に植えたらダメなんだって」篤子もそれ以上克則の話題を続けるつもりもないようで、再び話題を変える。畑の先に向けた視線を追う。太陽に照らされたトマトとナスが、伸びやかに揺れていた。


「稔さんがさっき言ってた。同じナス科なのに、仲が悪いって」

「似た者同士なのに……。まるで葉月とお父さんみたい」

 考えたこともない言葉に、葉月は不意を突かれる。「え……」と声を漏らし、篤子の顔をまじまじと見た。フリーターの自分と公務員の克則は、どれだけ贔屓目に見ても対極にある存在だと思っていた。性格も、類似点があるとは思ったこともない。


「だって、自分がこれって思ったことは絶対にやろうとするでしょ」

「そうかな」

 篤子が言うなら、克則はそうなのだろう。自治会長を拝命したのも、まつりの伝統を守るという使命感がそうさせているからかもしれない。それに比べて自分は、やりたいことはあっても、結果的には何もできなかった。油断をすれば、できなかった時の言い訳を考えている自分がいた。


「葉月は、もっと素直になりなさい。やりたいことを一生懸命にやるのに、格好なんか気にすることないし、困ったら相談して、頼ればいいの」

 畑に視線を向けたまま、篤子が言った。

 その言葉が、どうしてか胸にまっすぐ入り込んだ。母は、やはり母なのだ、と思うと嬉しさと恥ずかしさの両方が込み上げてくる。静かに、けれどまっすぐに叱ってくれているのだろう。それを正面から引き受ける覚悟、今までの自分に足りなかったのは、このどうしようもない自分を認める覚悟だったのかもしれない。


 克則から覚悟を問われた時、何も言い返すことができなかったのは、自分で自分を諦めていたからだ。諦めなければ終わらない、と稔は言った。覚悟というのは、そういうことを言うのだ、と妙に腑に落ちた気分になる。

 相談しろと言われ、頼れと言われた。葉月は、自分のやるべきことを考える。強がりを言ったものの、篤子に心配をかけさせたくはない。頼れる人、意識せずとも思い浮かぶ顔があった。憧れ、焦がれ、縋っていたその人の顔を、葉月は畑の中に探した。


 黙り込んだ葉月を心配してか、篤子がこちらの顔を覗き込む。

「やっぱり、お父さん呼ぶ?」

「大丈夫。お父さんと同じくらい頼りになる人、ちゃんといるから」

 稔の横顔を視界に捉え、葉月は呟いた。





 一旦家に帰った葉月は、シャワーを浴びてから、改めて稔に連絡をとった。ちょうど自宅に戻ったという稔に、相談に乗ってほしいとメッセージを送った。会合の資料を覗き込みながら、どこから話そうか考えているうちに、葉月は自分のミスに気づいた。


 稔個人ではなく、沙也加も入ったグループにメッセージを送っていたのだ。「あ」と思った時には、すでに沙也加が《じゃあ、稔さんのお店に行ってもいいですか?》と不躾な要請をしていた。唖然としているうちに、《全然大丈夫》とスタンプまで返す稔に、今度は愕然とした。


 着替え、急ぎ自転車を漕いで喫茶店に着いた頃には、せっかくシャワーを浴びたというのに、背中は汗で濡れていた。額に滲む雫を指で払いながら、葉月は『閉店』と札のかかったドアを開けた。

「すいません、日曜日なのに」

 慌てて沙也加に電話し、会わなくても大丈夫だと主張したのだが、『直接の方がいいじゃん』と言う沙也加に押し切られ、営業日でもないのに店に押しかけてしまった。


 こういうのをありがた迷惑というのだ。

「いや、僕もまつりの話はしたかったから。婦人会と青年会はなかなか交流を持つ機会もないし。お互い仕事じゃないんだから、気楽にいこう」

 稔はいつも柔らかい。葉月が仕事でミスをしても、それを柔らかく叱ってくれる。この喫茶店もそうだ。稔の心が隅々かで行き渡り、穏やかな空気がコーヒーの香りを吸収して伸びやかに健やかに空間を満たしている。

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