第23話
篠崎の視線は一瞬沙也加を捉えたが、すぐに隣の佐々木に移ってしまう。
「はい。八月の第三日曜日から始まります。参加希望は七月二十三日には取りまとめます。例年定員割れしていますから、新たな参加者を募った方がいいかもしれませんが、それは子供会が主体的に動くと聞いています」
佐々木の明瞭な説明に、沙也加はペンを走らせた。沙也加の手元を覗くと、箇条書きのメモに多くの書き込みがあった。日付に赤丸、情報の流れには赤線が引かれている。
「わかりました。いずれにしても、こちらは当日の準備および巡回指導が中心になりますね。三輪さんは、参加希望がまとまったら、顔合わせも兼ねて子供会と打ち合わせをしてください」
「はい」
沙也加はメモに「打ち合わせ」と書き込み、参加締切日から矢印を引く。
「あと、お囃子の型も、練習しておいてくださいね」
「わかりました」
顔を上げ、短く返事をする沙也加に篠崎は満足げに頷いた。
「次は、宣伝ポスターですが、これは昨年と同様でいいでしょう」
「そうですね。日付を直して、あとは同じで構わないと思いますが」
佐々木が、そこでちらりとこちらを見た。
「すいません。ポスターというか、宣伝方法について、提案があるんですけど」
葉月はおずおずと、篠崎に視線をぶつけた。驚いた顔でこちらを見る辺り、ここで意見が上がるとは思っていなかったのだろう。
「もっと、映像とか、そういう伝え方もあるんじゃないかって思うんです」
せっかく参加するのだから、新しいこと、これまでにないことをやってみたい。自分のようなぽっと出に何ができるとも思えないが、考えを伝えることはできる。ずっと自分を押し殺し、悲劇だ運命だと何もせずに悲観と後悔に明け暮れていたこれまでの日々が蘇る。どこでもいい。なんでもいい。一歩を踏み出す勇気を、稔が、沙也加が、与えてくれた。
「ポスターはどうするんです? そのポスターを作るための予算しか割り当てられていなんです。ポスターなし、などは許しません」
一呼吸置いて篠崎が口を開く。困惑気味ではあったが、はっきりとした否定の意思が言葉に宿っていた。気圧されそうになる心を踏みしめて、葉月は反駁した。
「ポスターはもちろん作ります。映像の方は、費用はそこまでかかりません。カメラさえあれば、あとは……」
もうひと押し、と思ったところで、険しい眼光が葉月の瞳を射抜いた。
「あまり余計なことはしないように。歴史を守る、ということを忘れてはいけません」
「……すいません」全てを断ち切る篠崎の言葉に、葉月は反射的に言った。
力なくうなだれる葉月の頭越しに、議論は続いた。決まったことが決まった通りに進んでいく。予定調和の最たるものが、まつりの会合というものだった。
話くらいは聞いてくれる、と安易に考えていた葉月には、この現実は直視に耐えるものではなかった。踏み出そうとした一歩の着地点を見つけることができず、せっかく掴みかけた自分のやりたいことが、するすると手元から離れていく。
沙也加の手伝いをするだけ、それだけのはずが、いつの間にか自分の思い付きを実現させることに腐心していた。
誰に相談したわけでもない。沙也加から話を聞いたその夜、何気なくスマートフォンでネットニュースを行き来しているうちに、映像配信を考えついたのだ。それ自体は珍しいことでもない。全国的に有名な祭は、すでに配信サイトで公式のチャンネルを運営している。けれど、本家の浜松まつりさえそうした動きはなく、ましてや地域のローカルなまつりは、動画さえ上がっていなかった。
今更何ができるのか、そう言われている気分だった。決まったことを決まった通りにする。それが伝統で、流儀なのだと、篠崎の目が言っていた。その眼光は、すぐに克則のそれと重なる。葉月は目を伏せた。轟々と耳元を瀑布がなだれ落ち、滝壺に吸い込まれる。その勢いに負け、浮上しかけた体が再び湖の底に没入していく。
「それでは、これで今日の議事は全て終了です」
篠崎の号令で、葉月は顔を上げた。
会合が飲み会に変容するのは、会長も出席する総会だけらしい。一通りの決定事項を繰り返したあとで、どこからともなく出てきた弁当を参加者に配るのを手伝った。食べていってもいいし、持ち帰ってもいいらしい。
「お疲れ様でした」
タイミングを見計らい、葉月たちは逃げるように公会堂を出た。すっかり日の落ちた街道に出る。ぱらぱらと雨が降っていた。傘をさすほどではないその細かな雨粒が頬にまとわりつく。
「うまくいかないもんだね」
「曖昧だったからかな」
「どうだろ、ポスターを蔑ろにされたと思われたのかも」
「やっぱり、無謀だった?」
「きっと」
「だよね」
理想と現実、希望と絶望、渇望と枯渇、それぞれが渦の中で交錯し、混沌の霧が葉月を包んでいく。それは、恥ずかしながら懐かしい感覚だった。あれほど自分の不遇を呪っていた自分には、このくらいの挫折は大した問題ではないのかもしれない。すでに多くを失った。今この瞬間も、ただ悪あがきをしているだけなのかもしれない。諦めるのは簡単だ。簡単に、自分は諦めてきた。巡り合わせの悪さを言い訳にして、足掻くことも、その方法も、考えたことがなかった。
「でも……」
沙也加が何かを言いかけ、一度口をつぐむ。
「でも、でもまだ終わってないよ」
葉月が、その言葉を引き継いだ。そうだ。まだ終わっていない。稔も言っていた。諦めなければ、続けることができる、と。湖の底から見上げる水面に、一筋の光が見えた気がした。
とはいえ、具体的に何をすればいいのか、一週間経っても葉月はわからずにいた。相変わらず、克則を避け、篤子の問いかけもはぐらかしていた。道は続いているはずなのに、立ち尽くすことしかできない。歯がゆく、そして踏み出せない現実。妙な緊張感は、不安定な中に存在する安定を錯覚させ、擬似的な拮抗状態を作り出していた。
幸い、喫茶店の仕事がある時は勉強と称して遅くまで稔のそばに、ない時も平日は夜さえ越えればそれでよかったし、休日も、なんだかんだどちらかに予定があるものだから、注意深く気配を探っていれば克則と衝突することはなかった。日曜日の今日は、稔の農業教室の手伝いをして、気を紛らわせていた。
教室の方は、六月下旬にしてようやく野菜の植え替えも終わり、しばらくは水を撒き、肥料を与え、芽や実を間引く作業が続く。小さい花が咲いた時は、その愛らしさに気持ちも晴れやかになった。トマトが黄色い花弁をつけるとは思っていなかったし、ナスは想像通りの紫色で、似たような形の花びらを見るに、トマトもナスも仲間なのだと改めて思った。
同じナス科の作物だということは、どこかの座学で聞いていた。原産地も異なるのに、今は通路を挟んで隣り合っている。
「本当は、もっと離した方がいいんだけどね」
作業の合間に、稔がそうやって話しかけてきた。額に汗を浮かべ、腰に手を当てて畑を眺めるその横顔が眩しかった。
「トマトとナスを、ですか?」
「同じナス科の植物ってこともあって、同じ病気にかかったりするから厄介なんだ。しかも水とか肥料とか、管理の方法も違ってて、近いと互いに影響を受けることがあるんだ」
「似た者同士なのに、仲良くないんですか?」
「まあね。家庭菜園のレベルだったら、そこまで気にすることもないよ。ちゃんと農薬も撒いてるし、今年は天候もいいから、今のところ順調だ」
明け方まで雨が降っていたということもあり、トマトもナスも葉を目一杯茂らせて、梅雨の合間の日差しに体を染めていた。
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