第26話

 まっすぐに差し込む光、眩しくて目を背けそうになる明るい気配が、膨らんだように思えた。温かい感触が頭を包む。俯いていた顔を上げた葉月の瞳に、そっと手を伸ばす沙也加の姿が映った。

「葉月は、考えすぎなんだよ。私が頼んだ仕事、全部背追い込まなくなっていい。二人でいる方がいいに決まってるじゃん」


 最後の一言が、妙に胸を騒がせた。

「沙也加……」

「二人でいる方がいい。そう言ってくれたの、葉月でしょ?」沙也加は僅かに微笑むと、頭に乗せた掌をそっと離した。「励ましてくれたこと、嬉しかった」

 浜松に帰ってきてすぐに、一度頭に描いた過去の記憶だと思い至る。ひとりで河川敷に座り、過去から戻ってきた沙也加とすれ違った時、確かに自分は、斜に構えた当時の自分の声を聞いた。


 人の言葉は不思議だ。印象に残るのは、大抵自分の言葉ではなく、誰かの言葉だ。それはテレビのスポーツ実況だったり教師の説教だったり、友人の何気ない一言だったりする。葉月を形作っているものの中には、そうした『誰かの言葉』が確かにある。浜松に戻ってから、こちらが望まないのにことあるごとに溢れる過去の記憶、その中にある言葉の数々は、よくも悪くも今の葉月を形成している。それにどれほどの意味があるのか、葉月自身にもよくわからない。


「あれは、話を逸らしたっていう方が近い気がするけどね」

「やっぱり」

 沙也加が笑う。葉月も釣られて笑った。過去に囚われた自分が、一方で過去に友人を励ましていた。そしてその時と同じように、今は友人が自分を励まそうとしてくれる。迷いや不安は、まだ心の中にあった。それでも、今はその負の感情を素直に認めることができる。それでもいいと、自分に語りかける。

「二人でいる方がいい、か。そういうのは、羨ましい」





 婦人会の会合は、無事に終わった。二回目ということもあるが、費用はほとんどかからないこと、そして何より、動画のアップロードが何をもたらすのか、それがしっかりと説明できたことで、ポスターを予定通り作ることを条件に、篠崎は渋々ではあるものの了解してくれた。

 沙也加とはその週の水曜に、稔の喫茶店で待ち合わせをした。沙也加が、《明日、休むことにしたから》と前置きもなく宣言し、すかさず稔が《じゃあ、お客さんの少ない時間帯に、うちで打ち合わせすればいいよ》とメッセージを出した。


 仕事中にまつりの話をしてもいいものだろうか、と葉月は戸惑ったが、稔は意に会する風でもなかった。

 沙也加は閉店時間間際にやってきた。夕食の準備だけして、家を出てきたらしい。「うちの人は、まだ帰ってこないから大丈夫」と言いながら、窓際の席に座った。アイスコーヒーを二つ持って葉月が席に着く。


「案ずるより、産むが易しっていうでしょ?」沙也加は言った。

「難産だったけどね」葉月は苦笑する。けれど、こうして終わってみると清々しい気持ちになる。腹に蓄えた緊張の実はもうだいぶ小さくなった。それも、すべて稔と沙也加のおかげだった。

「でも、これが実現したら、結構画期的だと思うな。こんな小さな地区だけど、うまくすればもっと注目されるかもしれない」


「そんなことないと思うよ。誰の目に止まるかもわからないし」

 稔に諭され、軌道修正した形で臨んだ会合で決まったことは、所詮はちっぽけで目新しさもない、凡庸なアイディアにすぎない。それさえも新鮮に映るほど、まつりは膠着しているのだ。

「さっきはさ、『まつりの知名度が上がれば、これまで関心のなかった世帯への訴求もできると思います』なんて啖呵切ってたのに」

「ああでも言わないと、納得しないと思いって。でもそれが目的じゃないでしょ」


 目的は、このまつりの日を来年に、次の世代に、間違いなく受け継いでいくこと。それが曖昧なまま暗中模索していた日々にあって、あの時の稔の言葉が、沙也加の掌が、自分の進むべき道を正してくれた。湖の底から起き上がる力をくれた。

「そうだろうけどさ。期待しちゃうじゃん」


「結果的にそうなったらいいけど。佐々木さんも、『来年も再来年も続くように頑張りましょう』って言ってくれたんだし、それでいいんだよ」

「そういうもんかね」沙也加はまだ何か言いたげだったが、「まあいいか」と顔を上げた。

「大変なのはこれからだよ」


 実際に行動に移す前に、やるべきことがあった。あえて意識の外に置いていた問題が目の前に屹立し、葉月はため息をついた。

 自治会で何かをする。しかも新しいことを始めようというのだ。自治会長の許可が得られなければ、元の木阿弥になってしまう。その役割は、自然と自分になった。婦人会は、最終的には葉月のやりたいことを認めたが、それはあくまでも会長の承認を得られた時の話だ、と篠崎からは強く釘を刺されていた。


「わかってるけどさ。タイミングがなくて」

 まつりに関わることになっても、克則には特段の報告もしていなかった。沙也加の手伝いをするだけ。婦人会のことは、役員なりそれ相応の人が報告するだろう。そう思い、克則のことはすべて先送りにしていた。気が進まない。結局のところ、それだけなのだ。

「今日にでも言ってみたら?」


 漫然と流れる時間に身を任せ、袋小路に入り込んだ葉月に、沙也加はこともなげに言った。

「うん」

 気のない返事でお茶を濁す。そこで、沙也加のスマートフォンが振動を始めた。どうやら夫からの電話らしく、短いやりとりをしたかと思えば、「ごめん。話はまた今度。次までに、会長さん説得しててよ」と早口でまくし立て、沙也加は店を出ていった。


「三輪さんは、台風みたいに元気がいい」

「それって、褒め言葉になってるんですか?」

 葉月の問いかけに、カウンターの奥から稔が顔を出した。稔は小さく首を傾げるだけで、すぐに引っ込んだ。水道の音がする。葉月は飲み終えたグラスを掴み、カウンターに上げた。


「うまくいったみたいでよかった」

「はい。稔さんのおかげです」

「大げさだよ」

 稔が柔らかく笑う。

「今日は、本当にすいません。仕事中に抜ける格好になって」


「気にしなくていいよ。幸か不幸か、お客さんは来なかったし」

 稔の自虐に、葉月も釣られて笑う。夕食どきに客がいないのはいつものことだ。住宅街に店を構える宿命とも言え、稔もあまり頓着していないようだ。

「あの、迷惑じゃないですか? 沙也加といつもここで会ってて。その……」

「まさか。常連さんになって貰って、こちらとしては嬉しい限り。むしろ感謝してるし、あの頃に戻ったみたいだ」


「あの頃って……。私たちのこと、覚えてたんですか?」

「……そっか。そういう話、してなかったよね」

「沙也加のことも、ですか?」

「そうだね。あの時は驚いた。女子高生から告白されるとか、想像もしてなかったから」

 その時のことを思い出したのか、稔は珍しく目を伏せた。


「沙也加は、昔から自分に正直だから」

「かもしれないね。そして山瀬さんは、いつも何かをじっと見つめているようで。バランスのいい二人だって思ってた」

 沙也加との一件は、稔の中ではもう過去のことなのだろう。すぐに相好を崩し、懐かしそうに目を細めた。

「そんなに目立ってました?」


「いや。気に障ったのなら、ごめん」

「そうじゃないんです。沙也加はダダ漏れでしたけど、私はそういうの、隠してたつもりだったから」

 まさか、あの頃からずっと稔のことを想っていることも見透かされているのか、と葉月は不安になる。


「山瀬さんはもっと深いところから世界を見ているような気がしてた。光を探しているような」

 葉月の想像とは違っていたが、それとは別の驚きがあった。湖というフィルターを心に宿し、そこから抜け出そうとしなかった自分の姿が、稔には見えていたのだ。稔の表現は綺麗すぎるが、間違っていない。

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