第27話

「光……。そうですね、そんな感じです」

 湖の底から見ていたのは、確かに光だった。世間という煌めくような閃光、自分の身の丈に合わないそれらに当てられ、火傷ばかり負っていた。

「この場所がそうさせていただけかもしれないけど。喫茶店っていうのは、結構人の本性を炙り出すんだ」

「……どういうことですか?」

「ここでアルバイトをしていたのは大学生の頃で、それからすぐに東京に出た。武者修行ってことになるかな。知り合いの伝手で、カフェで働いてたんだけど、そこに、面白い人がいたんだ」

 カウンターから窓に視線を移し、遠くを見るような目で稔が話を始めた。思えば、稔の身の上話は聞いたことがなかった。

「コーヒーには、不思議な力がある。その人は、そう言っていた」

 予想外の話に葉月は面食らったが、すぐに閃くものがあった。

「それって、小説みたいです」

 幾度となく読んだ小説で、そんなやりとりがあった。主人公のサナエが働くカフェでの一幕だ。それはもちろん、カフェの穏やかさや心地よさを表すメタファーとして機能しているのだと思っていた。

「そうそう。その小説は僕も読んでたから、半信半疑で。時間も空間も、全てがコーヒーの香りや味に支配される場所。そんなものが現実に存在するのかって」

 小説の記述と、その人の言っていたことは一致しているようだった。まるで小説の中のカフェに、稔が迷い込んだように聞こえる。

「東京にそんなお店が? 聞いたことなかったです」

「普通は、そう思うよね。でも、働いて実感した。確かに、コーヒーには、ほかの食べ物や飲み物にはない、独特の空気がある。豊かさとか安らぎとか、人が根元的に持つ欲求を満たしてくれる、そんな力がコーヒーには確かにある」

「コーヒーの香りとか、そういうものが精神に働きかける、みたいな感じですか?」

「多分ね。でも、そうだな。もっと刹那的な、それでいて普遍的な力なんだ。僕たちはそこにいるだけで幸福感を得て、素直な自分をさらけ出すことができる。お客さんと話をする機会があると、尚更よくわかる。真面目そうな人でも話してみると意外に気さくだったり、笑顔が絶えないと思っていた人が、実は人並み以上の苦悩や葛藤を抱えていたり。普段は表に出さないことを、カウンター越しに聞くたびに、これは僕に話しているんじゃなくて、自分に語っているだろうって思ったんだ。心の奥、その人しか立ち入れない場所から湧き起こる感情の息吹が、言葉になっているんだろうなって」

 そうして語る稔には、衒うところも嘲るところもなく、ただ淡々と自分の言葉を綴っていた。どこか遠くの世界のことを話しているような、それでいて身近なような、不思議な感覚だった。

「大学生の時に君たちを見ていて感じていたことも、その時に改めて思い返した結果なんだ。昔はぼんやりとしてわからなかったけど、多分間違ってはいないだろう? だからなんだって話だけど」

「そういうのって、本当にあるんですね」

 結局は、そうして曖昧なことを言ってしまう。自分の中で消化するにはまだ時間がかかる話だった。

「まあ、都市伝説みたいな話かもしれない」

 そうして笑う稔は、けれど本心からそれを信じているのだろう。目で見て感じて、そうして知った知識は、経験は、その人の深いところで息づくものだ。それを受け入れることができる。だからこそ、稔の言葉には熱を感じた。コーヒーに魅せられ、コーヒーに寄り添うことで見えるもの、それがコーヒーの力なのかもしれない。

「それを信じられるくらい、稔さんはコーヒーが好きなんですね」

「コーヒーも、このカウンターも、テーブルも椅子も、この場所全てかな。もちろん、お客さんも、働いてくれるみんなも。どれが欠けてもいけない」

 好きなモノ、好きなコト、好きなトキ、たくさんの好きがこの場所にはある。それを作っている稔への想いは、どれくらいの好きなのだろう。

「そういうの、羨ましいです」

「そう? 山瀬さんだって、何か熱中できることくらい——」

「私には、何もありません」

 反射的に口から飛び出した言葉が、ぴりっと空気にヒビを入れる。亀裂から覗く稔の目が見開かれる。葉月は慌てて「すいません」と声を落とした。内奥の湖が波打ち、漂っていた雑多な記憶が次々に葉月の足元に流れてくる。そのどれもが、理想と現実の狭間で悶える自分の姿だった。

 恋も、仕事も、人生も、何をとっても、ひとつとして自分の思い通りにはならなかった。自分らしく、生きることができなかった。それができれば、本当はどこでもいい。けれど、それができなければ、どこにいても、そこには——。

「……居場所がほしかったんです。ずっと、ずっと、私はきっと、それを探していました」

 声がつまり、つんと鼻の奥が熱くなる。押し寄せる波を瞼の裏で抑え、浅く呼吸をする。言葉にして初めて、自分が望んでいるものを知った。それがさらに息を乱す。

 稔は静かに、葉月の声を聞いていた。顔を伏せる葉月には、その存在だけが確かなものだった。湖から溢れ出す感情が、言葉になって葉月の口を動かした。

「自分らしくありたい、まっすぐに自分の気持ちを表現したい……。言葉では簡単だし理想的で素敵な生き方ですけど、現実には難しいんです。それができる世界に入ることさえ許されないんです」

 会社員として、社会の歯車として働き、結果として噛み合わせに不具合が生じ、空転するばかりになっていたあの頃。生きていることさえ困難に思え、そう気づいた時には体を壊していた。川崎の工場で発症した適応障害は、結局完治することなく、葉月を社会から締め出した。

「東京に、私の居場所はありませんでした。もったいないことをした、多分父はそう思っています」

 病院通いの日々が葉月をますます惨めな姿に変えた。認知行動療法もあまり効果がなく、無理やり会社を辞め、浜松に帰ってきた。心療内科だけは浜松でも通っているが、病気と向き合うのも億劫になっていた。殺風景な診察室で問診とカウンセリングを受け、今は投薬治療も受けている。

 ストレス状態が好転すれば症状は回復するらしいが、叶わない夢にしがみついている限り、この呪縛から解放されることはない。わかっていることだった。それが自分の心と体に負担を強いていることは、最初からわかっていた。

「でも、どうしようもないんです。夢が、やりたいことが、全て叶わなくて、生きているだけの自分が、どうしても許せなかったんです」

「だから、まつりに……?」

「自分の居場所は、自分で作るしかなくて、でも、うまくいかないんです。今も、本当は何がしたいのか、自分でもわからなくて。父に話をして、もしダメだったら、もう私の居場所は……」

 一息でまくしたて、葉月は上気した顔に手を当てた。掌が濡れていた。汗が滲んでいた。

「君は、山瀬さんは、すごいと思うよ」

 急に自分の名前が出て、葉月は反射的に首を横に振った。

「夢があって、それが叶わなくて、ぼろぼろになってもまだ何かをやろうとしている。危ういって思うこともあるけど、努力ができるっていうのは、立派な才能なんだと、僕は思う」

「悪あがき、しているだけですよ」

 嗚咽まじりの声で、葉月は自嘲気味に呟いた。それを稔にぶつけるのは間違っているとわかっていても、声には棘が生え、自分も他人も傷つける。誰も傷つけたくないのに、それを葉月自身止められない。

 篤子にも、ひどいことを言った。克則にも不義理をしている。でも、どうすればいいのだ。この気持ちを素直にぶつけて、拒絶されたら……。そう思うと、何もできない自分がいた。

「そんな風に、自分を過小評価することはない。山瀬さんには、難しいかもしれないけど」

「すい——」

「はい。すいません禁止ね」

「ごめんなさい」

 葉月の返答に、思わずといった形で稔が笑う。

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