第28話

「この間も言ったけど、山瀬さんが感じたこと、それを素直に表現すればいいさ」

「でも……」

「山瀬さんの言う通り、居場所がほしいなら、作るしかない。そのために何ができるのか、山瀬さんなら、もうわかっているはずだ」


 そう言われても、と思う。そのセリフこそ、小説でよく目にするものだ。心の奥に秘めた思いに気づく、きっかけになる言葉だ。残念ながら、今この瞬間に、自分に何ができるのか具体的にわかっていたら、稔にこんな話はしていない。


「難しいですよ。あの父を説き伏せるのは」

「会長さんも頑固だもんね。山瀬さんそっくりだよ」

「それ、母にも言われました」

「悪いことじゃない。そうしてぶつかることも、互いを理解しようとしている証拠だ」


「理解、してくれるでしょうか」

「そのためには、山瀬さんが理解してあげないとね」

 考えないようにしていた。克則が何を思っているのか、ただ自分を軽蔑していると決めつけ、それ以上の思考に蓋をしていた。

 何をすればいのか、わからないなら考えればいい。そして、考えるヒントは、確かに自分の中にあった。


「……はい」

 準備が必要だった。不安は消えない。けれど信じるしかない。不安もなくすために汗をかくことも、大切な覚悟だ。

 決行は翌日と決めた。





 朝から、葉月は気が気ではなかった。稔の店で考えていたことを篤子に話したが、やはり篤子は、「いいんじゃない」と軽く言うばかりだった。けれど、そんな篤子に背中を押されたのも事実だった。篤子がいいと言うなら、それは正しいのだろう。僅かに力の抜けた肩にエプロンをかけ、篤子と葉月は克則を迎える準備をした。


 炊飯器が炊き上がりを告げるのとほぼ同時に、克則が学校から帰ってきた。

「おかえりなさい」篤子と葉月は揃って克則を迎えた。

「ああ」ダイニングに入った克則は、言葉少なに葉月と向き合った。顔を合わせた途端怒鳴られる、ということはなかったが、それでも寒々とした空気は執拗に葉月の周りを包んでいた。テーブルを挟んで向き合う克則との間には、深い谷があった。冷たい風が吹き抜け、遠くに見える父親の姿が揺れて見える。


 これまでなら、すぐにでもこの場を逃げたしていただろう。けれど、今はそんな葉月を、沙也加と稔と篤子が励まし、支えてくれている。その熱だけを心に秘めて、葉月はダイニングの椅子に腰掛けた。

「今日は餃子だに」


 篤子だけは、この空気に飲まれることなく、いたって自然に振舞っていた。同じ空気を吸っているとは思えない軽やかさで餃子の並んだ皿を置き、茶碗にご飯をよそう。扇型に広がる餃子は香ばしい匂いを放ち、それだけで食欲が刺激される。

 茶碗を並べながら、篤子が葉月の隣に座った。

「いただきます」三人の声が揃う。どれだけ谷が深くても、餃子の誘惑には勝てない。


「二人で作ったのか?」克則が箸で形のいい餃子を掴んだ。そのまま口に放り込む。パリッと衣の爆ぜる音がした。

「そうそう。葉月が変な歌を歌いながらね」篤子が合いの手を入れ、葉月の作った不恰好な餃子を皿に取った。


「お母さんが作った歌だってば」葉月も自分で包んだ餃子をタレに付けながら言った。

「あれか、『お山がひとつ、またひとつ』って。それは、確かに母さんがよく歌っていた」克則が葉月の顔を見て、笑った。


「全然覚えてないのよね」篤子は首を傾げ、とぼけた顔をする。幼い頃、こうして食卓を囲み、篤子の作った餃子を食べて、克則と二人で舌鼓を打っていた記憶が、鮮明に蘇ってくる。

 その光景が、葉月の目頭を熱くする。餃子を口に突っ込む。漏れてきそうな嗚咽を餃子と一緒に飲み込んだ。けれど、涙だけはどうすることもできなかった。


「これ、葉月が作ったのか?」戸惑いがちに克則が話しかけてきた。

「そう」篤子のしっとりとした声がすぐ隣で聞こえた。

「美味しいな」

 克則の顔は見ることができなかった。葉月は口を押さえ、漏れる嗚咽にむせないように必死になった。


 決壊した涙腺から涙が零れ、テーブルを濡らす。一粒ごとに、気持ちが溢れてくる。悔恨、贖罪、諦念、憂愁、マイナスの感情が、また濁流となって湖に流れ込む。堰き止めようとして果たせず、押し返される。泥に足を取られ、力が入らない。


 肩に熱が伝わったのは、その刹那だった。抱かれるように力強く回された腕が、葉月を支える。顔を上げた先に、稔がいた。

 濁流が押し寄せても、稔はビクともしない。僅かにしかめた顔にどれだけ泥水が跳ねても、力を緩めようとはしなかった。


 腰のあたりに別の温もりがあった。稔よりも小さな手が、それでも葉月の体重を支えようと必死に食らいつく。顔を見なくても、沙也加だとわかった。

 心の中に湛えた湖に隠遁し、他人を寄せ付けず、そして自分をも壊してしまったその淵で、歯を食いしばり、自分を支える人がいる。自分の中には存在しないと思っていた、他者の想い——。


 一歩が踏み出せず逃げてばかりの自分を、それでも鼓舞し、前に進めと声をかけてくれる人たち。自分は、この気持ちを受け取るに値する人間なのだろうか。

「それを考えるのか、君なんだね」

「出た、妖怪文学少女。もうそんな歳でもないでしょうに」


 稔が認め、沙也加が茶化す。これが私たち。これが、生きているということ。どこにでもある日常に立ち向かう勇気を、この二人がくれた。もちろん、篤子も、克則も。

 自分の周りにいる全ての人が、自分を支え、他人を支え、そうして生きている。自分勝手に檻に閉じ籠って、コンプレックスの塊になってしまった葉月を、たくさんの想いが温め、ほぐし、元の人間に戻してくれた。


 今度は、その声に応える番だ。そのために、できることは、全てやりたい。今は、恐らく一番心配し、迷惑をかけた相手に、素直に謝りたい。

「お父さん」


 葉月は、瞑っていた目を開けた。ちりっと目尻が痺れる。涙で腫れた瞼が熱を持っている。今鏡を見たら、きっと格好悪い顔をしているのだろう。けれど、それも篤子が言っていた通りだ。これも自分、格好悪くても、これが自分だ。

 じっとこちらの言葉を待つ父の目を、正面から見据えた。


「今まで、逃げ回ってごめんなさい。お父さんからっていうよりも、自分から、自分の生き方から、逃げてた。責任を放棄して、全部なかったことにして……。勝手に戻ってきて、ごめんなさい。仕事は、まだ難しいけど……、やりたいことは見つけたの。もう一度、夢を追いかける勇気を、みんなから貰ったから」

 歪んだ視線の先で、克則がじっと葉月を見ていた。その口が、ゆっくりと開く。


「納得しているのか、後悔しているのか、どちらでも構わない。そう言ったことがあったな」

「うん」

 葉月の返事を待って、克則が一瞬目を伏せた。

「あれは、間違っていたのかもしれない」

「そんなこと……」


 予期せぬ言葉に、今度は葉月が視線を外す番になった。

「社会から孤立するということは、生きている実感を失うことだ。実感のない生は、死と変わらない。それを見過ごし、母さんにお前を押し付けて……。不義理を働いたとすれば、私も同じだ」

 葉月の事情をどこまで知っているのか、それはわからない。精神的な病を患っていることは、篤子にもぼんやりとしか話していない。克則はそれでも、今の葉月の状況を理解しようとしてくれたのだ。


「生きるって、本当に難しいよ」

 生きるだけで人は傷つき、悩み、後悔し、そして諦める。生きていることから逃げてしまう。緩慢に悪化していく人生を呆然と眺め、遠くに見える死を前にしても、もう進路を変えることさえできなくなる。


「難しいな。悲しい想いをしないように、明るく生きていくのは難しい」

 深く息を吐きながら、克則は静かに言った。分かり合える日は、来ないと思っていた。後ろで支えてくれた二人の顔が近づく。今なら大丈夫、そう言われている気がした。

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