第29話
「あのね、もう知ってるかもしれないけど、まつりの、婦人会の手伝いをしてて。そこで、やりたいことがあるの」
「聞いてる。篠崎さんが、昼間来たよ。何かのついでだったろうが、熱心に話していった。お前をよろしく、そう言っていた」
「篠崎さんが、学校に?」
「熱意を買われたな。あそこまで言われたら、こちらもノーとは言えない」
「いいの?」
「やってみなさい。受け入れられるか、炎上するか、黙殺されるか。いずれにしても、何もしないことで得られることは何もない」
穏やかな顔つきの克則は、まっすぐに葉月を見て言った。
「ありがとう。お父さん」
視界が滲む。押し留めていた涙腺が、再び決壊した。止め処なく流れ落ちる雫に、ダイニングの明かりが反射していた。
**
梅雨が明ける頃になって、まつりの準備は本格化してきた。十月の第二土曜と翌日の日曜日、その二日がまつりの本番だ。あと二ヶ月半、このあいだの日曜日は、屋台小屋から屋台を出し、埃を落として痛んでいる箇所がないか点検をした。そういう準備の模様を、葉月は撮影して回った。
「撮るのは本番だけだと思ってた」
カメラを手にした葉月に、沙也加は戸惑い顔で言った。
「昔から言うでしょ? まつりは準備してる時が一番楽しいって」
「そうだけど、だからってこんなところまで撮らなくたっていいじゃん」
今は、稔の店でまつりの宣伝ポスターを作っているところだ。まずはデザインを決めようと、ここ数年分のポスターを入手し、文字の並びや写真の位置を検討していた。
「いいの。カメラを借りた人、大学時代の友達に言われたの。『素材はどこに転がってるかわからないから、とにかく撮ること』って」
留美と連絡を取ったのは、思えば随分と久しぶりだった。まつりの様子を映像に収めることを思いついた時、真っ先に浮かんだのが留美の顔だった。てっきり映像制作会社で働いていると思っていたが、すでに独立し、フリーのビデオジャーナリストとして活動しているとは知らなかった。
「ジャーナリストって言っても、実際は地味な仕事だけどね」
この世界で起こっていることを映像で伝える。インターネットが普及し、誰もがクリエイターになれる時代。ネットと映像の親和性の高さも後押しし、映像配信会社からの対価はそれなりだという。
「何かを伝える仕事っていうのは、すごいよ」
葉月は、掛け値なく賞賛した。自分のやりたいことと正面から向き合うことの難しさを、生き生きと生きることの難しさを知った自分には、その生き様は眩しかった。
「葉月嬢のお眼鏡に叶うとは恐悦至極」留美の物言いは、あの頃と変わっていなかった。自分も学生時代に戻れたような気分になる。
「けど、本当に久しぶりだね。気づいたらSNSも退会しちゃってるし」
「うん。色々、本当に色々あって……。それなのに、こっちの都合で連絡してごめん」
「連絡するのに、都合も何もないでしょ。誰かを頼るっていうのは、そういうもんだし。頼られて嫌な気持ちになる人なんていないって。私も嬉しかった。
余ってるカメラ、それからバッテリーの予備と、諸々のケーブル。これはついでっていうか、サービスかな」
溌剌とバッグから次々と黒い塊やコードを取り出していた留美の手に、封筒が握られていた。
「何?」
「葉月が好きだって昔言ってた作家の、幻の作品」
封筒の中には、確かに小冊子が入っていた。本屋に並ぶ文庫本よりも薄い。自費出版のもののようだ。
「何でこんなの持っているの?」
「私も、色々あったんだよ。知らなかった?」
「え、知り合いとか?」
「さあ、どうでしょう」
「その人は私の知っている人ですか? 正しければ一を、間違っていれば二を押してください」
「必死すぎ」詰め寄る葉月に、留美は笑う。「じゃあ、三で」
「そんな選択肢はございません」
「いいじゃん。知らないことがあった方が、人生楽しいって」
「何、それ」
結局、留美には煙に巻かれてしまった。帰りの新幹線で、その本には目を通した。どうやらそれは、デビュー作で描かれた主人公のその後を書いたもののようだった。
博士課程修了を目前にしたサナエが直面する、ちょっとしたトラブル。長編に比べれば、それは微笑ましくもある、研究室の内と外で繰り広げられる群像劇だ。喫茶店の店主は、常にコーヒーとともに、空気を琥珀色に染め、サナエのそばを優しく照らす。それらの描写こそ、あの頃に戻ったように、葉月の胸を抱きしめた。
一足先に就職した彼氏を、実家の父親に合わせるのが、物語のハイライトだった。サナエの母親の墓前に立った青年は、隣に立つサナエの父親に言う。
『自分の境遇を運命だと受け入れるのは簡単です。でも、立ち向かう気持ちまで失えば、死んだように生きるしかなくなります。それはダメだと、そうサナエさんに教わりました』
覚悟、それが伝わる言葉だった。父と和解した身にも、その声は強く響いた。やはり、この作者には勝てない。自分が持っていない考え方をたくさん持っている人だ。誰が書いているのか、知りたい気持ちが大きくなる。
そこで留美の言葉が脳裏に浮かぶ。知らない方が楽しい。そうかもしれない。興味を保つためには、それも大切なのかもしれない。
でも、だからこそ、まずは知ってもらうことが必要だった。取っかかりさえない状況では、知りたいとも思えない。もっと知りたい、その気持ちを引き出すために、準備の場面を映像に残すことにしたのだ。
「わかりましたよ。だけど、この机以外、映すの禁止だからね」
沙也加が唇を尖らせる。
「了解であります」カメラを掲げたまま、葉月は敬礼した。
「いつから葉月の上官になったの、私」
沙也加はやれやれといった様子で、作業に戻った。シャープペンシルが紙を擦る。その音が耳に心地いい。そうして具体的になっていく日々の中で、葉月は自分の足が地面についているのを感じていた。湖の中で重力さえも受け流していた自分には、この体重さえ新鮮だった。
湖の淵に立っている足元は、まだぬかるんでいて、油断すればすぐにバランスを崩してしまうだろう。これまでベールのように頭上をたゆたっていた光に、その肌を焦がしてしまうこともあるかもしれない。
自分の足で立つことさえ困難だったあの頃。変わったのは、今の葉月にはその不安定な体を支えてくれる人がいるということだ。
「じゃあ、今度はこっちから撮るよ」
沙也加にそうして答えながら、葉月は自分の胸の中を覗き込んだ。どこまでいっても、不安は消えない。それでも、今は生きている。それを実感する。焦点を沙也加からハンディーカムの液晶画面へ移す。画面の隅に映り込んだ写真に目が留まる。屋台を囲み、克則と並んだ自分の顔が見えた。自分の笑顔を見るのが気恥ずかしくなって、葉月は僅かに角度を変えた。
夢のあとさき 長谷川ルイ @ruihasegawa
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