夢のあとさき

長谷川ルイ

第1話

 細かな振動を背中に感じ、葉月はまどろみの中にいたことを知った。バスのシートに収まる腰を咄嗟に動かし、行き先表示を確かめる。寝起きの心臓がひやりと縮まったのも束の間、次の停車場所の表示を視界に捉え、葉月はほうっと静かに息を吐いた。


 シートに頭を埋め、窓の外に意識を向ける。バスはちょうど大きな橋を渡っている途中だった。対向車線の向こう側、橋の欄干から覗く景色は、半透明の膜を張ったような空気に遮られ、遠くを見渡すことはできなかった。


 最近めっきり本を読まなくなった葉月でも、その表現は知っていた。まるで自分の感情を映しているようだ、と。青でも白でもない、薄いベールに覆われて茫洋とした景色は、全てが平坦に見えた。それは前後不覚に陥った葉月の心の色を表現しているように思えた。

 しかし、それではこの空の下にいる全ての人が葉月と同じように後ろ暗い気持ちでいることになる。そんなことはないだろう、とも思う。春の霞の中にいるからだろうか、と葉月は重たい頭で考えていた。


 バスは橋を滑るように走る。風を切る音がすぐ耳元で聞こえ、センターラインや対向車が勢いよく通り過ぎていく。そうして流れる風景を眺めていた目が、橋のたもと、河川の名前を示す標識に吸い寄せられる。瞬く間に過ぎ去る〈一級河川 天竜川〉という文字を見た途端、葉月は思いがけず安堵し、そんな自分に驚いた。葉月自身にもわからない心のうち。それを解釈する間もなく、バスは浜松へと向かっていた。


 笹塚駅で電車を待っていた時も東京駅の改札口を出た時も感じたことを、葉月は再び心に描いた。帰ったところで何かが変わるわけではない。自分は結局のところ、東京から逃げてきたのだ。そういう後ろめたい気持ちが、葉月の心に真っ黒な塊となって沈殿していた。


 よくあることだと自分に言い聞かせる。夢を持って上京しても、上手くいく保証はどこにもない。大学から社会人までの七年間で、自分は世間を知ることができた。それで十分ではないか。


 諦めとも悟りともつかない心境のまま、葉月は膝掛けを整える。バスに乗った時点で決まっていたことがひとつだけあった。どうあがいても、天竜川の先、東名浜松北で降車しなければならないのだ。


 バスが本線を外れ、減速を始めた。高速道路には要所要所に高速バスの停留所がある。サービスエリアに隣接している場所もあるのだろうが、浜松北はローカル線の駅ように本線から分岐した細い道があるだけだ。バスはその身をわずかに捻って引き込み線に入り、路線バスと同じような小さな停留所の前で停まった。前に座る乗客が何人か立ち上がる。葉月も足元のキャリーケースの取っ手を掴み、通路に出た。荷物を体の前に置き、降車の列に続いた。


 ドアを出て、アスファルトに足をつける。西日が本線の向こう側から僅かに覗いていた。日没までまだ時間があったが、そよぐ風は東京のそれより冷たく感じた。乗り込む客はいない。何人かの客を降ろすと、バスはその巨躯を震わせて本線に合流していく。


 停留所のそばには待合室があり、降りてきた人を出迎える姿があった。スーツ姿の男性に駆け寄る女性は妻だろうか。出張から帰った夫を迎える妻。浜松にいればそういう風になっていたかもしれない自分の未来。果たして何が幸せなのだろうと模索しながら、結果的には何ひとつうまくいかなかった日々——。悔恨と諦念が渦となって押し寄せる。それは不甲斐なさを伴う棘となって葉月の胸を執拗に刺し、鈍い疼痛を走らせた。


 暗澹とした気持ちのまま待合室を素通りしようとして、横目に覗いたそこに母の姿を見つけた。驚いて立ち止まると、母、篤子も葉月を認めたようで、小さく手を振り、横開きのドアを開けてこちらに近づいてくる。時間は伝えていたが、まさか迎えに来るとは思っていなかった。


「葉月、お帰りなさい」

「お母さん、迎えになんか来てくれなくてもよかったのに」葉月はどんな顔をしていいのかわからなかった。

「元気そうね」篤子は西日を避けるように額に手を当てたまま、明るい声で言った。否定することもできず、葉月は思いついたことを口にする。


「今日、お父さんは? 仕事じゃないでしょ」つい周りをキョロキョロと見回してしまう。

「今頃は町内会の集まり」

「そっか、おまつりもうすぐだもんね」


 浜松のまつりといえば、大凧を揚げるあのまつりだ。葉月の実家は、浜松まつりに参加する字の中ではもっとも北の地域に属していた。だからなのだろうが、凧揚げ行事に本格的に参画することはなく、まつりの運営を手伝うのが昔からの役割だった。凧を揚げるには、海岸線はあまりにも遠い。この地域では、春の浜松まつりよりも地域の神社を囲む字が中心となって執り行われる秋まつりの方が盛大に催される。


「そうそう。お父さん自治会長になって初めてのおまつりだもんで、ずいぶん気合が入ってる」

 父親の克則は地元の中学生で教頭を務めていた。勤勉で真面目、絵に描いたような教師で、地域活動にも嬉々として参加する行動力も持ち合わせていた。

 葉月は克則の不在を知り、胸を撫で下ろした。実家に帰って父親と二人きりでは気が滅入る。克則との確執があるわけではないが、能天気な篤子と違い、克則はきっと東京から逃げるように帰ってきた娘を快く思ってはいないだろう。


「仕事は終わったの?」

 自然と歩き出し、待合室の横から伸びる階段を降りる。キャリーケースの取っ手が指に食い込んだ。

 ここ数日のやり取りで、篤子がパートタイムの仕事をしていることを知った。終始のんびりした篤子に務まるのかと半信半疑ではあったが、半年も続いているというのだから、上出来だ。


「休憩中なの。今日はお客さんが多くて大変」そう言う篤子は全く大変そうではなく、やはり明るい。

 葉月が浜松に帰ると告げた時、篤子はその明るい声で「いいんじゃない」と軽く言うものだから、こちらが拍子抜けしたのを思い出した。


「そっか。じゃあ待ってる」

「家まで送るに」

「いいよ。時間潰すのには慣れてるから」葉月は自嘲する。会社を辞めてから今日までの数週間、ひたすら時間を無駄にしていた。やったことといえば引越しの準備くらいだ。篤子は僅かに眉をひそめたが、「そう」と呟くだけだった。


「じゃあ下のあの店、なんだっけ」篤子は人差し指を回し、記憶を攪拌するような仕草をする。

「ハンバーガーショップでしょ。そこにいるから」

 話しているうちに階段が終わり、路地へ出た。高速道路を挟むように伸びる側道だ。自転車が数台乗り捨てられ、傍から伸びるセイタカアワダチソウが夕風にそよいでいた。

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