第31話女神の慈悲

 ファルリンは、泣き疲れて眠り朝を迎えた。水瓶から桶に水を注ぎ入れ、顔を洗うために桶を覗き込んだ。水面に自分の顔が写る。泣いた跡が判る顔に、ファルリンはため息をついた。すべてを洗い流すように念入りに顔を水で洗った。



 ファルリンは、いつものように後宮の神殿へと向かった。神殿に向かう途中で、ファルリンはカタユーンと会った。二人で並んで神殿に向かう。


「ファルリン、何かありましたか?」


 カタユーンは、様子のおかしいファルリンに声をかけた。挙動がおかしいのではない、いつも通り振る舞おうと妙に肩に力がはいっているのだ。


「……なにも」


「本当に?」


 カタユーンの追求にファルリンは、黙ってしまう。彼女は口を開けては閉め、何を言おうか悩んでいるようであったが、やがて囁くように言った。


「メフルダードに恋人がいました」


 カタユーンは、ファルリンの言葉に心底驚いた。メフルダードがジャハーンダールの変装だと、当然カタユーンは知っている。ジャハーンダールの姿を間近で見ることが許されている臣下の一人だ。


「それは、どこの女性ですか?」


 ジャハーンダールは、相手の親族に余計な口出しをしてきそうな人物がいないか慎重に見極めている。カタユーンが知る限り、貴族の娘達にジャハーンダールが得になるような人物はいない。

 ファルリンが「恋人」と言っているのであれば、そのように親しそうにしている所を目撃したのだろうが、ジャハーンダールにそんな相手が居れば、人目につかない何重にも魔法で目隠しをした自分の部屋で密会するだろう。そういう、慎重な所があるところをカタユーンは知っている。


「マハスティでした」


 ファルリンは苦しそうに言った。カタユーンは一番思いも寄らない人物に絶句した。ファルリンは、それをカタユーンが肯定していると思ったのだろう、泣く寸前の顔で祈祷所に入っていく。

 カタユーンは誤解を解こうとしたが祈祷所に来てしまったので、ファルリンと並んで祈りを捧げはじめた。 祈祷が終わり、ファルリンが近衛騎士団の訓練所に行こうとするのをカタユーンが止めた。


「ファルリン、この後は確か自己鍛錬の時間でしたね」


「そうですが」


「私の部屋に来てください。話があります」


 ファルリンは及び腰であったが、いつになくカタユーンは強引に彼女を自分の部屋へと連れて行こうとした。しかし、ファルリンは騎士として体を鍛えているのだ。カタユーンが一生懸命引っ張っても、びくともしない。


「何をもめてんのよ二人で。珍しいじゃない」


 鈴の鳴るような声が天井から降ってきた。ファルリンとカタユーンが上を見上げる。女神アナーヒターが宙に浮いていて仁王立ちしている。


「女同士の秘密の会合をしようとしていたの」


 今にも逃げ出しそうなファルリンを、カタユーンは押さえ込む。どうやら彼女は、腕力は無いようだがある程度の武術の心得はあるようだった。


「面白そうね。私も入れなさい」


 事情をよく知らないアナーヒターも仲間に入れ、カタユーンはファルリンを自分の部屋に連行した。





 カタユーンの部屋は、王宮の神殿近くにある。必要最低限の調度品が置かれ、こざっぱりとしている。カタユーンはファルリンとアナーヒターに椅子を勧め、自分は簡易キッチンでお茶を淹れた。


「ファルリン、最初に言っておきますがマハスティがメフルダードとどうこうということはありません」


「何故ですか?……メフルダードとマハスティは、昨日の夕方、中庭で」


 ファルリンは言葉を詰まらせた。涙をこぼすのを堪えているようだ。アナーヒターは、我関せずといった態でカタユーンの淹れたお茶を優雅に飲んでいる。


「マハスティが相手にするのは、高貴な人物しかありえません。貴族の女性は、身分で親が結婚相手を決めます。それ以外の男性と関わりをもつことは許されていません」


「マハスティが相手にするには、最高の相手じゃないですか……」


 ファルリンは、思わずといった様子で語気を荒くした。カタユーンは、ファルリンの言葉に「メフルダードは国王ジャハーンダールの変装である」とファルリンが気がついている事を悟った。


「いつから……気がついて」


「昨日、御前会議の警護の時に、風が吹きたまたま御簾がめくれ上がったのです」


 カタユーンは、御前会議に出席していた。しかしファルリンが御簾の中を垣間見たことに気がつかなかった。


「王である彼なら、マハスティと釣り合いがとれる、と考えたのですね?」


 容赦の無いカタユーンの言葉に、ファルリンは堪えていた涙をこぼした。泣き出してしまったファルリンに、アナーヒターはティーカップをテーブルに置き、地の底を這うような低い声で言った。


金星の種アルゾフラ・ビゼルを泣かせる原因を作った人類は生きているのかしら?」


 カタユーンは、アナーヒターに名前を告げたらとんでもない天罰を下しそうだと息をのんだ。アナーヒターは神の力の制御をすこし緩めたのか、絹のような黒髪が風もないのに舞い上がっている。


「とりあえず、国王あの馬鹿を始末してくればいいかしら?」


 今にも部屋の窓から飛び出しそうな女神を、カタユーンは押しとどめる。今、国王が死んだらそれこそ我が物顔で王国を私物化しようとする貴族によって、ヤシャール王国はボロボロにされてしまう。


「お待ちくださいませ。ファルリンの勘違いでございます」


「どういうことなのか説明しなさい。内容によっては、国王あの馬鹿が禿げ散らかすぐらいで許して差し上げるわ」


「寛大なお慈悲を、アナーヒター様」


「神は心が狭いものよ。自分の信者以外は、苦しもうが死のうが、関係ないもの」


 部屋から飛び出すのは諦めてくれたのか、先ほどまで座っていた椅子にアナーヒターは腰をかけた。


「貴女が陛下とマハスティが密会をしていたのは、昨日の夕方だと言いましたよね?昨日の夕方、陛下は私とヘダーヤト、他数名の神官達と神殿で会議をしています」


 ファルリンは、思ってもみなかったカタユーンの言葉に驚いて涙が止まった。

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