電子書籍配信記念

はじめてのデート ①

「う、ん……朝?」


 瞼の裏に光を感じて、杏奈はぼんやりと目を覚ました。

 時計は見えないが、カーテン越しの光の加減からいってまだ「朝」といえる時間だろう。


(よかった……! 目覚めたよ、私!)


 これまでのように昼近くになっていないことに心の中でガッツポーズを決めて、ほっと満足の息を吐く。


 杏奈やヒューゴの部屋にある寝台は四本の支柱がある、いわゆる天蓋付きになるタイプだ。

 しかし今、横向きに寝転がる杏奈の目には、天井から壁から殺風景な部屋の隅々までがよく見える。

 根っから軍人気質のヒューゴが、視界を遮る意匠を嫌って幕をかけないからだ。

 

 杏奈の私室の寝台にはちゃんと天蓋があるわけで――そう、つまりここは夫婦の寝室である。


(んふー、旦那様と一緒に迎える朝……ああ、どうしよう、幸せすぎる!)


 けれど、そろそろ起きなくてはならない――というのも、今日は外出の予定なのだ。


 薄い毛布の下、起き抜けで気怠い身体をそっと動かすと、背中から腰に回された太い腕に力が入ってあっけなく引き戻されてしまう。

 ぽすん、とシーツの上で弾む体を反転させて、杏奈はくすくす笑いながらヒューゴのがっしりとした胸に額を付ける。


「おはようございます、旦那様」

「……まだ早いだろう」


(うわ、朝からこの声! ダメだからもうっ!)


 寝起きで少しかすれたヒューゴの声が、妙に色っぽい。

 ヒューゴのことは丸ごと大好きだが、特に低音の響きのいいこの声に弱い杏奈はこっそりと悶える。

 ぎゅっと抱きしめられて、頭のてっぺんに落とされる軽いキスに足先をジタジタさせながら、でもあの、と反論を試みる。


「きょ、今日こそは起きないと」

「出かけるのは、やっぱりまた今度にしないか?」

「……旦那様とお出かけするの、ずっと楽しみにしていたので……」


 しょんぼりと言えば、ぐぐっとヒューゴの喉の奥で音がする。


 杏奈が嫁いできてから、ヒューゴが帰宅する回数は格段に増えたと皆が口を揃えるが、実際には週の半分にも満たない。

 それに、家にいる間の時間を全部自由に過ごせるわけでもない。

 家内のことについて杏奈はまだ勉強中だから、ジュリアや執事のグラントが処理をしているが、家長の決済が必要な書類や決め事もある。


 だから結局、ヒューゴが杏奈とゆっくりできるのは、夜も更けてからの時間になることが多い。

 そうすると、なぜとは言わないが翌朝は起きるのが必然的に遅くなるわけで……一緒に外出したいという杏奈の希望を了承してくれたのはだいぶ前にもかかわらず、なかなか実現せずにいたのだった。


(わ、私も、こうやって旦那様にくっついているのは大好きだけど!)


 雨でも降っているならともかく、どう見てもカーテンの向こうは青空だ。

 ヒューゴの腕の中からちらりと見上げて、まっすぐに目を合わせる。寝起きの剣呑な目元がカッコいい、と見蕩れて流されそうになる自分を律して、杏奈は決死の覚悟で主張する……必死になりすぎて涙目になったかもしれない。


「旦那様と、お外デートしてみたいです」

「ンンッ、……わ、わかった」


 バンザイ! ともう一度心の中で握りこぶしを高く掲げて、杏奈はようやく緩んだ腕からいそいそと抜け出したのだった。






「すごい人ですねえ……!」

「今日は、月に一度の市が立つ日だからな」


 この世界に来てから杏奈が一年間住んでいた伯爵領は、地方都市としては栄えているがやはり王都は別格だった。

 街路の整備状況も、店の数も、公共施設の充実度も段違いである。

 目を丸くする杏奈に微笑ましい視線を向けて、ヒューゴが説明をしてくれる。


「今日は普段から店を構えている者のほかに、臨時の露店が多く開かれる。広場では催し物もあるし、普段の数倍の人出だ」

「そうなのですね。それに、本当にみんな同じ色の服を着ています」


 そう言って杏奈は自分のドレスの裾を軽く引く。

 今日の杏奈の服は青色。

 普段は軍服で、私服といえば黒ばかりのヒューゴも珍しく濃紺のジャケットだ。


「今日はこれです!」と杏奈付きのメイドが張り切って用意したのが軽いペアルック気味でちょっと照れたのだが、聞いてみれば市の日は記念日でもあり、皆が青系の服や小物を身につけるのだという。


「青は王家の色だからな」

「そうなのですね」


 毎月同じ十日に立つ市は、建国の記念日にあやかっている。

 始めは、商人たちが王家に対する忠誠心を表すとともに「注目しているから善政よろしく!」という牽制の意味を込めて、王家のシンボルカラーである青色を月に一度の市の日に身につけたのだという。


 さらに、この日のみの青色の特別限定品などを販売した結果、「市の日イコール青色」という認識が広まった。

 次第に、店の者だけでなく客側も揃いで青色を着る風潮が広まったのだという。


(ちょっと違うけど、夏祭りの浴衣とかサッカーの応援みたいなものかな)


 なんにせよ、普段と違うということはスペシャル感がある。


「初めてのお出かけが特別な日で、なんだか嬉しいです」

「そ、そうか」


 人混みではぐれないように組んだ腕をより近づけて微笑むと、ヒューゴは目を瞬かせて横を向く。

 なかなか見られない旦那様の照れ顔に杏奈はほくほくだが、顔を向けられたほうにいた通行人は突然の強面にぎょっとして距離を取っていた。


「なにか見たいものはあるか?」

「そうですね……よく分からないので、まずは全体を」


 杏奈が城下町に来たのは今日が初めてだ。王都に越してきてたとはいえ、将軍家のあれこれに慣れるのが先と、外出らしい外出は今までにしていない。

 せいぜい近所を歩くくらいだったが、それだって十分目新しくて満足していたのだ。


「あ! お土産が買えたら嬉しいです」

「子どもたちにか」

「はい!」


 楽しげに答える杏奈に、ヒューゴが眩しそうな顔をする。

 杏奈がハリーとフロリアーナの二人と面会を果たしたのは、つい先日だ。


(できれば二人も一緒に連れてきたかったなあ……今度ね、今度! 私が道を覚えたら!)


 王都は治安は悪くはないが、安全とは言いがたい。

 おのぼりさんの杏奈と、やはり町歩き未経験な幼い子ども二人という初心者を連れての外出は、いくら将軍の腕が確かでも目が届かなくなる可能性がある。

 それに子どもたちは杏奈と顔合わせをしたばかりで緊張が解けていないということもあり、今日は留守番だ。


「なにか、子どもが好きそうなお菓子とか小物とか」

「そうだな……そういうのは、こっちか」


 事前に地図は眺めてきたが、至る所に露店があって、目印となる建物や看板が見えなくなってしまっているのは盲点だった。

 将軍であるヒューゴは城下にも当然詳しい。特に、軍に入りたての新人は必ずこの日の市中警護をするとのことで、現場を多くこなしてきたヒューゴは多くの店主たちとも顔見知りだ。


 そんな頼れる旦那様に案内を任せて、わくわくしながら杏奈は足を進める。

 しかし、それにしても人が多い。


(王都ってつまりは首都だから、新宿とかみたいな感じかなって思っていたけど、甘かったわね!)


 人の多さは同じくらいかもしれないが、道が狭い。結果、近いのは新宿・渋谷よりもむしろ年末のアメ横だろう。

 そんな混雑でもヒューゴの悪人顔は通用するらしい。

 僅かだがほかの人より杏奈たち二人は距離を空けられており、歩きにくいということはなかった。




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