ヒューゴのはなし 3
初夜を迎える花嫁の衣裳としては正しいのだろうが、まさかそう来るとは思っていなかったヒューゴは軽くパニックに陥る。
敵の急襲にもこんなに焦ったことはない。
焦りながらも目は離せないし、馬乗りになられた毛布越しに伝わる体温と重さが、やけに心地好く……いや、今はそういうことではない。
内心でツッコミを入れながらもどうにか問いただすと、ヒューゴが来ないだろうから自分から来たと言う。
しかも、寝室の鍵はジュリアから受け取ったと。
しどけない恰好で、大事そうに胸の間から取り出した鍵を見せられるに至って、軽くめまいがする。
「これに関しては永久貸与だと仰って、ジュリア様は快く」
それはそうだろう。
ジュリアとヒューゴが最後に顔を合わせたのは、どうしても夫婦での出席が必要だった晩餐会で、それも二ヶ月以上前のことだ。
ろくに話もせず終了後は会場で別れ、そのまま別に帰宅したような二人に、今後も頻繁に接触があるはずがない。
「だが」
「だってこうでもしないと、旦那様は私をいないことにするつもりでしょう?」
その通りだった。
それこそが、彼女の望みでもあるに違いなかったのだが……ヒューゴはここへきて、杏奈にはなにか思惑があるのではないかとの考えに至る。
――夫婦の勤めを果たさなければならないと思い込んでいるのか? それとも誰かに、例えば義父である伯爵から命令されて……?
昼間に浮かんだ「生贄」という言葉がまた頭をかすめる。
もし、あの人の良さそうな伯爵に強要されているのだったら、許せることではない。
そんな必要はないのだということを、なんとか説明しようと試みるも、杏奈は逆に嬉しそうに抱き着いてきた。
――こ、れは、まずい。
しっとりとした艶髪は肌をくすぐり、きめの整った肌は上気して甘い香りを立ち上らせる。
ここ最近は特に忙しかったこともあり、女性とのふれあいなどすっかり遠のいている。
そこへきて、この仕打ちは厳しい。
部屋に入った時に感じた香りの出所にも、ここへきてようやく気が付いた。
力いっぱいしがみついているようだが、こんな華奢な細腕の一つや二つ解けないわけはない。
だが、少し上ずった甘い声と、思いのほか密度のある柔らかい感触に、つい、されるがままで引き剥がすことができない。
もぞ、と動かれると別のところも触れて密着度がさらに増す。
いろいろと、本気でヤバい。
主に理性とか身体面とかが。
現状でさえヒューゴの処理能力は限界寸前なのに、新しい妻は恥じらいながら、さらにとんでもないことを言いだした。
「お慕い申し上げております、旦那様」
「っ、ありえない」
咄嗟にでた言葉は本心だ。
卑下するわけではないが、大の男でさえ怯むような容姿だ。女性の喜ぶことなど何一つ分からないし、気のきいた会話もできない。
一般的な女性に好まれる要素など皆無である。
なのに、杏奈は自分のことを「理想」だという。子どもの頃から憧れた王子様だとまで。
――信じられん。
信じられないが、嘘を言っているようにも思えない。
ヒューゴは、相手の表情を読み、隠しごとを暴く――話す言葉や行動にどういった意図があるのかを察する勘が、強く働くタイプだ。
本能と言ってもいい、この裏を嗅ぎ分ける能力で、これまで平素でも戦場でも危険を回避し、生き延びてきた。
隙を突かれたのは、ジュリアに薬を盛られた二回だけ。
あの時だって、香辛料をきかせた皿にそれとなく混ぜられては、犬にだって嗅ぎ分けられない。
二度目の時に至っては、僻地での抗争から戻ってきて足の怪我で動けないところを狙われた。
だが、どちらの時もなにか企んでいるということくらいは見破っていた。
最終的に薬効に従ったのは、跡取りを作らないことへの後ろめたさと、薬で力の加減ができなくなっている自分が、無理に拒否して怪我でもさせたらと怯んだのが理由だ。
義務でも保身でもなく、ただ好きなのだと、ヒューゴにも誤解しようのない率直な言葉を、杏奈は何度も繰り返す。
怪我をした過去に自分がいないことまで悔しがるその声も瞳も、全身で好意を伝えている。怯えも媚もない。
自分の目と勘が狂っているのでなければ、全ては本心からだ。
鎖骨の近くに残る傷痕に触れられるにいたっては、指先から憐憫と愛おしさが直接流れ込んでくるようで――そんな、まさか、とは思うが。
「アンナとお呼びください」
「……アンナ」
我ながら、甘ったるい声が出た。
初めて口にする名前なのに、やけに馴染みがいい。
自分から呼べと言った杏奈は、いざ名前を呼ばれた途端にぱあっと首まで赤くして、初めて目を逸らした。
あられもない恰好で自ら肌を寄せるくせに、名前を呼ばれただけで急に恥ずかしがるとか。
――くそっ、そのギャップはいっそ卑怯だろうが!
ヒューゴの脳天になにかが突き刺さり、おまけに心臓のあたりを鋭く撃ち抜かれ……自覚のないまま、強面将軍が恋に落ちた瞬間であった。
あわあわと狼狽えるその様子がやけに可愛らしくて、思わず口の端が上がったのにも、ヒューゴは自分で気づかない。
現実感なく夢でも見ている気になりかけたが、手を包み込むようにされて、今もまだ赤い杏奈の頬へと当てられる。
熱くしっとりとした肌は、確かに杏奈がここに存在している証だ。
瞬きを重ねるヒューゴの目に、花がほころぶように輝く笑みを浮かべた杏奈が映る。
比喩でなく、光って見えた。
「一目惚れでした。私を貴方の妻にしてください、ヒューゴ・セレンディア様」
「……!」
潤んだ瞳で真っ直ぐに射抜かれたまま、細い両手が導く先は、杏奈の脈打つ鼓動がもっとも近くに感じられる場所。
薄い絹越しに触れる温度と、ふわりとした重量のある柔らかさ。
思わず力が加わった手のひらに、ん、と喉の奥で息を詰める音が伝わって――
陥落したはずの将軍が反撃を仕掛け、形勢逆転するのは、わりとすぐだった。
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