ヒューゴのはなし 4

 

 宵からの外出を控え、身支度を済ませたヒューゴが軽食をつまんでいると、部屋に戻ってきた杏奈がそういえば、と話しかけた。


「旦那様。あの、お願いがあるのですが」


 こういう風にをされることは時たまあった。

 そのほとんどは、ごく些細なこと――たとえば、城下を二人で歩いてみたいだとか、在宅の時は一緒に食事をしたいとか。

 叶えるというにも、簡単すぎることばかりだ。


 子どもたちと関わりたいとの申し出は意外だったものの、許してみればハリーもフロリアーナもすっかり懐いている。

 ヒューゴもジュリアも、子どもたちとうまく関係が持てずにいた。杏奈のおかげで、二人の幼子は生き生きとするようになったと使用人も目を細める。

 子どもたちの件で何度かヒューゴに苦言を呈したものの、取り合わずに放置されていたグラントなどは、杏奈への心酔ぶりが半端ない。


 杏奈を中心に、ヒューゴも子どもたちも、意外なことにはジュリアまでもが緩く繋がりを持ち、セレンディア将軍家は過去にないほどうまくいっていた。


「どうした、アンナ」

「お庭の、地面を少し分けていただいても?」

「地面?」


 隣に腰掛けようとした杏奈を、ソファーの座面でなく膝に乗せれば、照れた表情でまた不思議なことを言い出す。


「はい。使っていないところでいいのです。あの、ハリーやフロリアーナと花を植えたりしたくて」

「花か」

「旦那様が私にたくさん贈ってくださいますから、興味を持ったみたいで」

「ああ……なるほど」


 ちら、とこの部屋にも飾られた花に目をやりながら杏奈が言う。

 欲のない側室は、ドレスや宝石を欲しがらない。

 杏奈にすっかり参っているヒューゴとしては、もっとねだってくれればいいのにと、物足りなさを感じるほど。

 花だけは無条件で喜ぶから、花屋の上得意になるほど贈っているのだった。


 ジュリアの温室のような観賞用ではなくて、地面を掘り返して、苗や種を植えたいのだと楽しげに計画を伝える。


「花と、できたら野菜も少し。自分で育てたものって特別でしょう?」


 偏食のあるフロリアーナのことを思っているらしい。


「構わない。場所はグラントと相談して決めるといい」

「嬉しい、ありがとうございます!」


 杏奈からの願いを断るわけがないのに、不安だったのだろうか。パッと顔を輝かせると嬉しげにヒューゴの頬へ口付ける。

 そっと触れるだけの、色のないキスだった。

 肩口に当たるデコルテにかぶりつきたいのを我慢して、ヒューゴはにやりと口の端を上げる。


「それだけか?」

「……口紅がついちゃうから、ダメです」


 からかわれた杏奈は、目の縁を赤くして視線を外した。

 滅多にない外出で、これから二人で侯爵家の夜会に向かうところだった。出発までのしばしの寛ぎ時間を過ごしていたのだ。


 せっかく侍女に綺麗にしてもらったのだから、と言う通り、着飾った杏奈は普段にも増して魅力的にヒューゴの目に映る。

 ドレスやアクセサリーの見立てをしたのがジュリアなのがやや不満だが、そういうセンスが皆無なことは自分自身よく分かっているし、何よりよく似合っている。


「夜会も、久しぶりですね」

「そうだな」


 見せびらかしたい気持ちはあるが、美しく装った姿が自分以外の男の目に触れるのは不愉快だ。

 杏奈が大勢の前に出たがらないのをいいことに、社交の集まりには大抵一人でか、パートナーが必要な時は正妻のジュリアと出席することが多かった。

 今夜は、ジュリアが事業の契約で遠方に赴いているために、珍しく杏奈を伴うことにしたのだった。


 今日の夜会は趣向を凝らしてあるとかで、杏奈も楽しみにしている。

 触れたくてたまらないが、せっかくの支度を崩すのは忍びない。せめてと指先に唇を寄せると、薬指に輝く青石の指輪が目に入った。

 今日のドレスはシックな赤。それぞれ似合ってはいるが、合わせて見るとややちぐはぐだ。


「……やはり、ほかの色の石も」

「ダメです。指輪はこれだけでいいし、これしかいりません」


 外されるとでも思ったのか、指輪を隠すようにヒューゴの手から自分の手を取り返す。仰け反る腰を支える腕に力が入ったが、他意はない。


 あんなに適当に済ませた婚姻だったのに、杏奈にとっては特別なことなのだそうだ。

 だからこの指輪も特別で、代わりの物はないのだと。

 そんなことを言われて悶えたのも記憶に新しい。

 あの時も随分啼かせてしまったが、仕方がない。そんないじらしいことを言う杏奈が悪い。


「じゃあ、ドレスを違うのに」

「今からですか?」


 やや呆れ気味の返事も、ヒューゴにとっては小鳥のさえずりのようだ。

 杏奈は言いにくそうに少し迷って、こちらも正装のヒューゴの胸に挿さる赤いバラに触れる。


「……赤い色が旦那様とお揃いだから、このドレスがいいです」

「んぐっ」

「軍服も普段の服も似合っていますけれど、今日の旦那様はすごく素敵です」


 漆黒のタキシードに白無地のウィングカラーシャツ、ブラックタイ。

 軍服以外で出席する場合のお馴染みの装いだが、杏奈はことさら気に入っているらしく、一緒に出かけない時もわざわざ見に来るほどだ。


 男の、しかも自分の服などどうでもいいと思っているヒューゴだが、とろんとした目でうっとり見つめられて悪い気などするはずもない。

 だが。


「……ドン・コルレオーネみたい」


 ごく小さく溢れた呟きを耳が拾った。

 とたん、焼け付くような嫉妬がヒューゴの全身を駆け巡る。


「……アンナ」

「えっ?」


 気付いたら、ソファーに押し倒していた。

 見上げる杏奈はまだ状況が分かっておらず、丸くした目をパチパチとしている。


「俺の前で、ほかの男の名前など」

「えっ、あの、ち、違くてっ! ふく、服装が!」


 杏奈の口から出た名前が、実在の人物ではないこともヒューゴは知っている。だが、芝居の人物であろうと何であろうと、面白くないのは面白くない。


 恋する相手の唇が紡ぐのは、己の名前だけでいいのだ。


 ヒューゴからゆらりと漂った気配にひゅ、と杏奈が息を呑む。酷く挑戦的な顔をしている自覚はあるが、止められない。


「っ、だ、旦那様、そろそろ時間で、」

「行くのは止めだ」

「ええっ?!」


 杏奈の上に被さったままジャケットをバサリと脱いで、邪魔なタイをぐいとむしり取る。ボタンかなにかが千切れた気がするが、知るものか。

 知らず発した色気にゴクリと喉が動いたのは、ヒューゴだけではなかった。


「やだ、ちょうかっこいい……って、いやいや、この新作ドレスの評判を聞いて来いってジュリア様に、ーっあ、や、だめ、んっ」


 手のひらに感じるコルセットをもどかしく思いながら、真っ赤な顔でなにやら言い訳をする口を塞ぐ。

 弱い抵抗がくたんと力をなくし、両腕がヒューゴの首に回るまで、息が止まるような口付けを続けた。


 ――グラントが何度か扉を叩いて、諦めて去っていったようだ。

 明日になればまた文句を言われるのだろうが、ヒューゴ曰く、「アンナが可愛いのが悪い」





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