ジュリアのはなし 3



 ヒューゴはヒューゴで、自分が軍の遠征に行っている間に親が勝手に決めた結婚、それも札束とともに押し付けられた妻など不本意でしかない。

 若さゆえの潔癖もあったろう、妻には婚儀の時以来指一本も触れなかった。


 最悪化の一途をたどると思われた夫婦仲がどうなったかというと――


「お互いに不満ならば、可及的速やかに義務を果たして解放し合うのが最善でしょう」


 つまりは、後継ぎの息子と他家との縁組に必要な娘だ。

 そうすれば、大手を振って相互不干渉になれる。ジュリアには、にやりたい夢も希望もあった。


「なのにあのバカ、子作りにちっとも協力しないのよ。あれね、食事でも嫌いなものは最後まで残すタイプね」


 そうして渋々飲み込むから後味が悪いのだ、と呆れ顔でジュリアは言う。

 杏奈が思い出してみれば、確かに、食事の時に野菜などそっと後回しにしていることがある。

 まあ、それも、「旦那様、あーん」でむしゃむしゃなのだが。


「ジュリア様は、苦手なものを先に食べそうですね」

「そう言うアンナは、順番を変えずに食べるタイプでしょう」


 ふふ、と笑ってジュリアはまだ減っていない杏奈のグラスにも新たに栓を抜いたワインを注ぐ。

 コクがありながらフルーティで飲みやすいこのワインも、ジュリアが見つけ、輸入を始めた逸品だ。

 流通量が少なく、当たり年のものなど驚くほどのプレミア価格になっている。


「このままじゃ一生、子どもなんてできやしないわ。だから一服盛ったのよ」

「ぶっ」


 催淫剤を使ったと打ち明けるジュリアに、さすがの杏奈もむせそうになった。

 だが、政略結婚が珍しくないこの世界では、夫婦間の平穏のためにそういった薬が処方されるのも――もっとも、双方の合意の上で、というのが建前だが――珍しくないということを思い出す。

 実家が商売をしているジュリアなら手に入れるのも造作無いはずだ。

 むしろ、嫁入り道具の一つとして最初から持たせられていた可能性のほうが高い。


「だって仕方ないじゃない。まだご健在だったお義母様が『孫はまだか、孫はまだか』って婚儀の翌朝からそれはもう煩いし。あなたの息子に言いなさいって話よねえ」

「ああ、それは」

「ハリーの時で警戒されちゃって、その後が大変だったけど」

「そ、そうですか」

「子ども達のことは……別にね、嫌いじゃないのよ。興味を持てないだけ。だから、アンナが関わりたいなら好きにしたらいいわ」


 そう言ったジュリアの表情はまったく凪いでいた。

 隔離されて育ったジュリアは、子ども同士で無邪気に遊んだこともなく、親子の情というものの実感もない。


 母親の役割は出産と監督であり、身の回りの世話は使用人の仕事であり、生育に関することは乳母や家庭教師の領分だ。

 出産したら自動的に母性が芽生えるような魔法があるわけでもなく、その思いは変わらない。


 愛情も感じず興味もないと言いつつも、使用人や家庭教師の選定はジュリア本人が特に気を使って行い、逐次報告を受けていることを杏奈は知っている。

 ジュリアはジュリアなりに、子ども達に配慮しているのだ。伝わってはいなかったようだが。


「お二人ともとても素直で可愛いお子様ですよ。ジュリア様とお会いできたら、喜ぶと思います」

「そうねえ……そのうちに、もしかしたらね」


 ぼんやりと言葉を濁すジュリアに、杏奈も曖昧な微笑みを返す。今はまだ、その時期ではないのだろう。


「……つくづく、貴女も変わった人よねえ。だいたいにして、この私にあんな書面を送りつけてくるなんて」

「ジュリア様は、きっと約定を重んじる方だと思いましたので。僭越ながら書面を用意させていただきました」

「よくわかっているじゃない」


 ふふん、と満足そうにワイングラスをアンナの前へ差し出す。乾杯、と杏奈もグラスを掲げ、ジュリアよりはずっと控えめにコクリと赤いワインを飲んだ。


 ――婚儀の場で将軍に一目惚れをしたこと。

 心身ともに結ばれたいが、夫側にその気は皆無と思われること。

 しいては、こちらから夜這いをかける所存であり、正妻ジュリアに協力を依頼するという旨。

 これに際し、以下のことを誓うと約束する契約書。


 そう、杏奈がジュリアに送った手紙は「契約書(草案)」だった。


 杏奈が側室として嫁ぐに当たり、前もって正妻と側室の役割分担や権利関係はクリアにされていた。

 しかし、杏奈がしたためたのは、その時に譲歩されたほとんどを「正妻のみ」に許す行為として返上するものだった。


 たとえば、夜会や舞踏会への正パートナーとしての参加機会。

 自分が主宰する各種茶会の催し。

 使用人の選定決定権や、杏奈への収入配分の減額……。


 普通の側室なら「もっとよこせ」というはずのことばかり、ことごとく突っ返されたのは驚きだ。


 側室から連絡をする無作法を詫びつつ、たったひとつ杏奈が求めたのが「寝室の鍵」だったのだ。

 その上で、あくまで家督を相続するのは長子のハリーだと、そこだけは先に念書を用意する気の回しよう。


 ジュリアとて、夫に対し何ら興味がないとはいえ、多少の後ろめたさは感じていた。

 自分は好みの相手と満足できる関係を持っているが、夫はそうではない。

 特に将軍などという重職に就いてからというもの、ハニートラップを避けるために女っ気のない生活に拍車がかかっていると聞く。

 まあ、多少はどこぞで発散しているだろうが、国防上のこともあり羽目は外せないはずだ。


 家内で安全に、神にも祝福された関係の妻とつつがなく合法的に愛し合うことができるなら、それに越したことはない。

 しかも自分との間に子ができても、今いる二人の子を尊重すると言う。


 ジュリアが杏奈に興味を持ち、鍵を渡すには十分すぎる内容だった。


「時間が無くて裏までは取れないから、絶対安心と思ったわけじゃないけれど。いざとなれば、伯爵家を相手取ればいいかなって」

「ジュリア様……私を信用してくださったんじゃなかったのですか」

「ふふ、悪く思わないでね。リスクヘッジは大事なのよ」


 しおしおと項垂れる杏奈の肩を抱き、ジュリアは頬を寄せて慰める。

 ジュリアの豪奢な自室、ムード満点の灯りの元で密着する女性二人は、見る人が見れば、なんとはなしに怪しい香りが漂う。

 今は侍女のケイトもおらず、二人を見るのは壁に飾られた絵画のニンフと、大きな花瓶に活けられた大輪のユリだけだ。


「でも、ちゃんと鍵はあげたでしょう? もう一度念を押しておくけれど、返さなくていいから」

「はい……鍵、だいじに、します……」


 雰囲気に呑まれたのか、言葉を詰まらせる杏奈の顎を、ジュリアのたおやかな指がくい、と上げる。


「アンナ……? あなた、もしかして」


 酔ったの? と問うジュリアの声と同時に、バターン!と乱暴な音を鳴らして部屋の扉が開かれた。






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