ジュリアのはなし 4

 

 押し入ってきたのは誰あろう、この家の主ヒューゴ・セレンディア将軍だった。

 開け放たれた扉の背後には、単騎で自宅に乗り付け全速力で正妻の部屋へ向かう主人を止め損なった使用人たちが肩で息をしている。


「アンナはここか!?」

「騒がしいわねえ」

「ジュリア、その手を離せっ!」

「えぇ? だんなさまの、こえがする?」


 今日は帰らないと聞いたのにと、回らなくなった舌で訴えて、杏奈はジュリアの胸にぽすんと凭れる。

 それを目撃してヒューゴは強面を硬直させたまま、周囲を凍り付かせるような怒気を発した。


「嫌な予感がして駆けつけてみれば……ジュリア、アンナに何をした?」

「なあに、その厄介な獣の勘。心配しなくても会ったその日に取って食いやしないわよ、貴方じゃあるまいし」

「ぐっ」


 剥き出しの不機嫌にも負けず的確に言い返したジュリアは、こっちにこいと手招きをした。

 むっすりとしたまま大股で近寄ってくるいい歳の男に、ジュリアは呆れ顔で肩を竦める。


「ねえ、ヒューゴ。この子、もう少しお酒に慣らさなきゃダメよ。舐めた程度でこれじゃあ、危なっかしくてどこにも連れ出せないわ」

「む、酒?」


 アンナしか目に入っていなかった将軍がようやくテーブルの上のグラスに気付く。

 たいして度数も高くなく、ジュリアが言うにはまだ一杯目で、しかも、なみなみ残っている。

 腕を引いて立たせようとしても、くたくたと膝が折れて力が入らない。

 すぐにここから連れ出したかったが、話を聞くまでは仕方ない。とりあえずジュリアの腕から奪い取って自分の膝へ乗せた状態でソファーへ腰掛けた。


 ごつい手で顔を上げさせれば、頬は熱を持ち、瞳は潤んで、いつもの数倍愛らし……もとい、いついかなる時も可愛い妻は今、危うい魅力まで漂わせている。

 半開きの唇に吸い付きたい本能をギリギリ押さえつけながら、ヒューゴはアンナに問いかけた。


「アンナ、酔っているのか?」

「んん、よってませーん、よ?」


 立派な酔っ払いである。

 当てられた手のひらにすりすりと頬をくっつけてくる様は、猫のようでもある。


「……んふ、あったかいー。じゅりあさま、ゆめでしょうかぁ」

「夢じゃないわよアンナ」


 日本ではまだ未成年だった杏奈の飲酒経験は限りなく少ない。

 ちなみに、洋酒入りチョコレート三粒で二日酔いになったことがあるうえ、両親はそろって下戸だ。


「ねえ? 夜会で貴方が目を離した隙に飲まされちゃったらどうするの」

「っ……!」


 想像だけで憤怒をあらわにする夫に、ころころと高いソプラノでジュリアは笑う。


「貴方をこんなに変えられる人がいるなんてねえ……よかったわね、ヒューゴ」

「ジュリア……」

「そのうちに、使用人とキッチンの監督はアンナにも手伝ってもらうわ。そのほうが私は自分の仕事に集中できるし」


 直接言葉を交わしたのは今日が初めてだが、嫁いでからの杏奈をずっと奥から見てきて、そうするのが合理的だとジュリアは判断した。

 杏奈はあの契約を盾に辞退するだろうが、変更権はジュリアにある。


「ふふ、私も仲良くできそう」

「退屈しなさそう、の間違いだろう」

「そう聞こえた?」


 含みを持たせて微笑むジュリアに、ギッと鋭い眼光が向けられたとき。

 ヒューゴの両頬をいつもより少し熱い杏奈の手が覆い、ぐい、と正面で向き合わされる。


「じゅりあさまをー、いじめちゃメッ!」

「ぶふっ」


 必死に睨みつけて精一杯の怒りの表情らしいが、全く迫力がない。

 あまりに可愛らしい抗議になにかが出てきそうでヒューゴは背筋を震わす。扉は開きっぱなしだが、察しの良い使用人たちは既に退却済みだ。


 いろいろと堪えきれなくなりそうなヒューゴに、杏奈はすう、と泣きそうな顔をする。

 そんな表情は初めてで、ヒューゴは本気で狼狽える。


「ど、どうした、アンナ」

「じゅりあさま、きれいなの……」

「あら、そう?」

「それに、いいにおいするし、やわらかいし……」

「嬉しいわね」


 称賛されてまんざらでもなさそうなジュリアとは反対に、ヒューゴは心の底から困惑だ。

 ジュリアの容姿は確かに整っているが、魅力的なのは杏奈のほうだ。匂いも柔らかさも、ヒューゴにとっては杏奈こそ至高。


「だんなさまも、そうおもうでしょう?」

「そ、そんなことはないぞ! ジュリアなんかよりアンナのほうがずっと、」

「ちょっと、ってどういうことよ」


 ワインの空き瓶を片手に凄まれて、すんでのところでヒューゴは口を閉じる。

 そもそも口下手で内心を伝えるのに慣れておらず、女性を口説いたこともない軍人だ。ジュリアに止められなくても、続きを言えたかどうかは疑わしい。

 だが、大事な言葉を聞けなかった杏奈は泣きべそだ。


「やっぱり、じゅりあさまのほうがいいんだぁ……」

「ア、アンナ」

「はいはい、もう寝なさいねアンナ。また来月会いましょう」

「じゅりあさま……」


 駄々をこねる子を宥めるように、よしよしと黒髪を撫でると、ジュリアは涙が零れそうな杏奈の瞳のすぐ脇に、ちゅっと音を立てて口付けた。


「はう?」

「うふふ、可愛い」


 杏奈はぽかんとしたまま泣き止んだが、ぴきん、とヒューゴが固まって一瞬後にわなわなと震えだす。


「ジュ、ジュリア……っ!」

「もう連れて帰っていいわよ」

「当然だっ!!」

「ぴゃっ?!」


 憤然と立ち上がり、抱き上げた杏奈を隠すように足早に出ていこうとするヒューゴの背に、ジュリアは楽しげに声を掛ける。


「ああ、ちょっと待って。ねえ、ヒューゴ、これなんだけど」


 一刻も早く去りたい心を我慢して振り返れば、ジュリアの両の手には二枚の薄い布地が。


「ピュアホワイトのつるつるスベスベ、慎ましやかなロング丈と見せかけて、両側に深ーいスリット入り」

「はっ!?」

「こっちは、白い肌によく映える紫の総レース。足の付け根までの短さで、上品で大胆な透け感がポイント」

「うっ!?」

「メゾン・ド・ボヌールのシークレットラインの新作ランジェリーよ」


 市場リサーチだと、商人の顔でジュリアが微笑む。


「お望みなら、特別価格でお譲りできますのよ、?」

「……お前というやつは……」

「一緒にワインもいかが? これ、味は気に入っていたし、練習にいいんじゃないかしら」


 酔ったこの子も可愛いわね、と図星を突かれたヒューゴは既にジュリアの掌の上だ。戸惑いが殺意にも見える表情でゴクリと呑み込んだのは、箍だったのか矜持だったのか。

 そんなこっちゃ知るかと、ジュリアは新規顧客獲得の手ごたえに心を浮き立たせる。


「デリケートな生地だから扱いには気をつけてね。乱暴にすると破れちゃうわ」

「わ、わかって……」

「それで、白と紫。どっちにする?」


 はたして「旦那様」がどちらを選んだのか。

 知っているのは将軍家の夫妻三人だけなのであった。






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