番外編 そのさん
ヒューゴのはなし 1
自邸の客間に入るのが、これほど億劫だったことはない。
フォルテリア国将軍ヒューゴ・セレンディアは、最後にもう一つ溜息を吐いて、滅多に足を踏み入れたことのない部屋の扉を開けた。
部屋の奥のソファーには三人がいて、すぐに立ち上がり、ヒューゴを迎える。
政略結婚にて縁を繋ぐことになった伯爵夫妻と、そして二人目の妻――側室となる、初めて会う女性だ。
「待たせました」
「いえ」
柔和な笑顔の伯爵と握手を交わす。瞳にわずかに浮かぶ抗議の色は、待たせたことよりも、この結婚そのものへ向けたものだろう。
なるべく顔を合わせないようにしつつも、相手の女性が視界の端に映ってしまう。
彼女はヒューゴの顔を見るなり目を大きく見開いて、言葉と息を呑んで、うつむいた。
――だろうな。
お世辞にも、人好きのする顔ではない。女性の義父である伯爵とは正反対といっていい、悪人面だ。
自分では見慣れた額にある傷痕も、若い女性にとっては恐怖心を煽るだろう。
なんとも言えない居心地の悪さを感じて、ヒューゴは官吏のほうへと向き直る。
早く進めろと視線で促せば、びくりと肩を震わせて婚姻誓約書の文言を読み上げ始めた。
一度も顔を上げず、指示されるまま妻の欄へ署名をする細い指がかすかに震えていて、また吐きそうになる溜息をどうにか押しとどめた。
伯爵家との間に持ち上がった縁談は、避けられるものではなかった。
自分が最初に結婚した時もそうだったが、政略という言葉で本人たちの意向と尊厳を無視するやり方が、ヒューゴは気に入らなかった。
だが、今すぐ政情に安定が必要なこの時、これが一番確実で安全だという宰相や王は間違っていない。
身分を理由に反対する勢力を力で押さえつければ、ますますの反抗は必至だし、意識を変えるにも時間が必要だ。
ヒューゴ自身もそれは分かっていて、だから渋々頷いたのだ。それでも。
――本当に、馬鹿げている。
分かってはいたものの、やはり委縮しきった相手を目の前にすると胃の辺りが重くなる。
当初の予定では、伯爵の実子の一人娘がここにいるはずだった。
十以上も年下で婚約者までいる令嬢が相手と聞いて、さすがに無茶な話だと思ったのは自分だけではなかったようだ。
ほどなく、娘の代わりにと打診されたのが、伯爵家の養子になった彼女――杏奈だ。
――身代わりの生贄か。
縁あって、昨年から伯爵家で保護していた女性だという。
やや複雑な来歴だが、不審な人物でないことは王宮が確認してあり、人柄は伯爵家の保証付。反対勢力との関係も皆無。
ちょうど結婚相手を探そうとしていたとかで、婚姻の話自体は向こうにとっても好都合だったかもしれない。
それでも、相手が自分のような軍人、しかも側室だとは思いもしなかっただろう。
当初の候補だった伯爵令嬢よりはヒューゴと年齢差は少ないが、似合いというにはまだ離れている。
ようやくペンを置いた杏奈を、伯爵夫人が気遣わし気にそっと背中を撫でて慰めている。しかし、それにも小さく首を振るだけだ。
優美にまとめたつややかな黒髪のおくれ毛がはらりと揺れて、つい見惚れそうになる。
勝気で分かりやすい美人の
側室などではなく、然るべき男性が正妻として迎えるにふさわしい。
ほかに身寄りはないというから、世話になっている伯爵からの依頼を断ることなど不可能だったに違いない。
ヒューゴは恋愛に重きを置いていない。
軍事にしか興味のない自分が、選り好みができるような容姿でも性格でもないというのも理解している。
ただ、戦場で共に戦う同士ではない「妻」や「恋人」という存在そのものが、ヒューゴには扱いかねるのだ。
そもそも、恋をしたことがない。
女性が必要なときは、あとくされのない相手を求めて、そういう店に行けばいいだけだ。
とはいえ、将軍などという役職に就いてしまってからは、行ける範囲も機会も格段に減ったのだが。
だからといって特定の相手を、都合がいいからという理由で懐の内に置いておくのも居心地が悪い。
いまの妻――ジュリアとは、没交渉だからこそ体裁を保てているだけだ。
また、ジュリア自身も夫との間に愛情などを必要としない、きわめて合理的でマイペースな人物だ。
だが目の前の女性は、ジュリアとは違う考えの持ち主に見える。
きっと普通の結婚を、人生を、望んでいたはずなのだ。
……
大勢を集めての式も披露宴もしないと伝えてあるため、着ているのは装飾の少ないすっきりとしたドレス。
だが色は新婦が選ぶだろうオフホワイトで、開いたデコルテを飾るのは花嫁が身につける定番の真珠だ。
不本意な婚姻であることは分かり切っているのに、けなげにも衣装を用意して身支度を整え、ここにいる。
そのこともまた、ヒューゴにとっては負い目でしかない。
「……手を」
「は、はい」
震える声とともに差し出された血の気の引いた手は、触れたら壊れそうだ。
自分が乙女の命を奪う悪魔にでもなったように感じて、あれほど戦場で命のやり取りをしていたくせに、と自嘲が込み上げる。
――一年か、長くて二年。政情が安定するまでの間だ。
結婚を大々的に公にしなかったのは、いずれ別れることを前提に考えているから。そのほうが、杏奈にとっても傷が深くないし、次の相手を探しやすい。
用意した青石の指輪は、祖母の持ち物だった。
別れる時に売ってくれればいい。デザインは古いが石はいいものだから、それなりに値が付くだろう。
だから、それまでの間だけ――
「これで貴女は、私の妻だ」
「……はい」
仮初の、名目上の夫婦のはずなのに。
従順に頷く「妻」に、嵌めた指輪に、彼女自身を所有してしまった気分になりそうで、そんな自分に嫌気がさす。
僅かに上げた杏奈の顔に色はなく、初めて視線が交わった瞳は涙で潤んでいる。
窓の光を反射させたヘーゼルの瞳が、なにかを訴えているようで――ドクリと胸が鳴ったのは、きっと罪悪感だと、ヒューゴは思うことにした。
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