ヒューゴのはなし 2

 ヒューゴとしては、すぐに軍の宿舎に戻るつもりだった。

 ところが、さすがに婚姻当日から別居というのはあまりにも体裁が悪い、と周囲に大反対されてしまった。


 自分がいないほうが彼女も安心できると思ったのだが、そうすると「無理強いされた政略結婚」のほかに「捨てられた花嫁」というレッテルも追加されるらしい。


 面倒だとの思いが顔に出たが、伯爵からの「結婚早々、アンナに肩身の狭い思いをさせるおつもりでしょうか」の一言は効いた。返す言葉もない。


 そんなわけで将軍邸に残ったものの、住み慣れていないせいもあって大変に居心地が悪い。

 というのも、実はこの屋敷は、ジュリアにつけられた持参金の一つとして入手したものなのだ。


 将軍職に就いた際に大規模な改装をしたものの、いまだ自分の住まいという認識は薄い。

 自室で、溜めていた軍の書類などになんとなく目を通しながら時間を潰していると、執事のグラントがノックとともに入ってきた。


「ヒューゴ様、入浴の支度が整ってございます」

「グラント。今からでも宿舎に」

「なりません」


 にこりと、だがピシリと、古参の使用人はヒューゴの言葉を途中で遮り却下する。

 長年この家に勤めている執事は、普段は主人であるヒューゴを立てるが、こうして二人だけの時はざっくばらんに話す間柄だ。

 顔も合わせない正妻ジュリアや、怖がって主人に近づけないほかの使用人との橋渡し役でもある。


「本日より三日の休暇の間、呼ばれない限りは決して戻るな、と念を押されてきたそうではないですか」

「チッ、耳が早いな」

「昨晩遅くから皆、必死になって屋敷内外を整えたのです。主人がろくに見もせずとんぼ返りされては、使用人の今後の士気にも関わりますので」


 側室を迎えることがどうにも気が進まなくて、日取りを伝えたのがギリギリになってしまったのは悪かったと思っている。

 そんなこともあり、特に今日は頭が上がらない。


「……彼女はどうしている?」

「アンナ様でしたら、もうお休みになったかと。お食事はあまり進まなかったのですが、もともと食は細いと伺っています。今後お好きなものや味の好みなど、キッチンと相談する予定です」

「そうしてくれ」


 婚姻手続きが済んだ後、杏奈とは顔を合わせていない。

 夕食はそれぞれの自室で済ませた。グラントには反対されたが、自分がいては気も休まらないだろうと思ったのだ。


「気になさるなら、ご一緒にお食事をすればよかったのです。お一人と分かって、お寂しそうにしていらっしゃいましたよ」

「……」


 それは、伯爵家から離されたことへの寂しさだ。ヒューゴと会えないからではない。

 そんな気持ちを見透かすようにグラントは軽く肩を竦め、続きの間である寝室へと視線を向ける。


 夫婦の寝室は共有で、このヒューゴの自室の続きにある。しかし、隣の「妻の部屋」はもうずっと空室だ。


 最初の結婚は寝耳に水だった。勝手に決めた両親への反抗もあり、早く跡継ぎを、と煩く言うのを無視し続けていた。

 ジュリアが自分に腹を立てているのは知っていたが、まさか自宅で催淫剤を盛られるとは、さすがに思わなかったが。


 そんなこともあって、正直、この寝室にはいい思い出がない。

 改修の時に寝台も壁紙も変えた。当時の面影は残っていないが、今もなんとなく気分は良くない。


 現在、ジュリアは別棟を使っているし、杏奈には、主寝室よりは少し狭いが、眺めの良い明るい居室を用意した。

 当然、彼女を夫婦の寝室に招く予定も、ヒューゴのほうから杏奈の部屋へ出向くつもりもない。


「では、湯が冷める前にお早く」

「はあ……分かった」


 グラントに再度言われたヒューゴは、諦めて浴室へと向かうのだった。




 

 風呂を上がってからもグダグダとして、ようやく寝室に入ったのは深夜になってからだった。

 寝室の扉を開けると、奥から何かの気配と甘い香りが微かに漂う。枕元に控えめに灯っているランプの明かり程度では、部屋の隅まで照らせない。

 一瞬、侵入者かと身構えたが、殺気などは感じなかった。


「……気のせいか」


 使用人が婚儀を祝って飾った花の香りだろうと思い直す。

 安全なはずの家の中でさえ気配を探ってしまうのはもう、職業病のようなものだ。

 ヒューゴは自嘲を滲ませて洗い髪をガシガシとかき混ぜると、寝台へと横になった。


 明かりを絞り、慣れないシーツの肌触りに寝返りを繰り返しつつ、うとうとしだした時。

 室内の空気が動いたと同時に軽い足音が近づき、ヒューゴが身を起こすよりも早く、とす、と身体に乗られた。


「誰だっ!?」

「杏奈です。旦那様」


 寝入りばなとはいえ不覚を取られたのは、全く害意を感じなかったからだ。

 それゆえ、声の調子もいささか弱くなったのは否めない。それでも尋問し慣れた自分の誰何に、怯まずに答える声が女性のものであることに驚きを隠せない。

 しかも、今日娶ったばかりの側室だ。


 なんとか半身を起こしたものの、細い明かりに浮き上がった杏奈の姿に、それ以上は動けず固まってしまった。


「!?」


 結い上げていた黒髪は背中へと流れ落ち、薄いナイトガウンの下はさらに薄い布一枚。

 胸元や脚はむき出しのまま、体の線も隠しきれていない。

 ガンと頭を殴られたような衝撃がヒューゴを襲った。






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