よん

 王都の将軍邸にある客間で、官吏立会いのもと、杏奈と将軍の結婚は成立した。

 形ばかりの結婚式すら行われず、書類の手続きと指輪一つで、杏奈はアンナ・セレンディアになったのだった。


 この度迎えることになってしまった二人目の妻に対し、将軍は最初から「白い結婚」を宣言していた。

 そうは言っても、もしかしたら、と念入りに身体を磨き上げた初夜は何事もなく過ぎ……ることはなく。


「誰だっ!?」

「杏奈です。旦那様……旦那様とお呼びしても? それともご主人様のほうがよろしいでしょうか」

「だ、旦那様で構わないが、君は一体何を」

「きっと旦那様は私の寝室にいらっしゃらないだろうと思いましたので。こちらからお邪魔した次第です」


 予想通り、将軍は深夜になっても杏奈の部屋を訪れなかった。

 将軍が寝入る直前を見計らって突撃をかました杏奈は、慌てて半身を起こす以上の隙を与えずに寝台の上で馬乗りになった。

 やけにピラピラしたネグリジェの裾をはだけさせ、薄い毛布の上からも分かる腹筋をこっそり堪能している。


 驚愕を浮かべる将軍の顔は、普段よりも五割増しくらいの凶相だ。クリスティーナなら確実に気を失うレベルだし、大の男でも泣いて逃げ出すに違いない。

 が、杏奈はその険しい表情に余計うっとり見入るだけ。


「どうやってこの部屋に入った?」

「怒らないで聞いてくださいます? ジュリア様にお願いして、鍵を頂戴しました」

「なっ?!」


 ジュリアは将軍の正妻だ。

 普通、夫婦の部屋は隣り合って配置され、間にある寝室を共有するのだが、側室の杏奈の部屋は将軍の私室から離れた場所にある。

 そして、名目上のみの夫婦となったジュリアも、現在は別の部屋を使っており「奥方様の部屋」は無人なのだった。


 夫に全く興味はないと公言しているジュリアに、夜這いをするから寝室の鍵を貸せと願い出たところ、美しいリボンでラッピングされて『今後永遠によろしく』とのメッセージカードと、杏奈が今着ている大変煽情的なネグリジェと共に届けられたのだった。

 その鍵を、杏奈は見せつけるように胸の間から取り出す。


に関しては永久貸与だと仰って、ジュリア様は快く」

「いや、だが」

「だってこうでもしないと、旦那様は私をいないことにするつもりでしょう?」

「……不本意な結婚だろう。バカバカしい茶番だが、政治上必要なことも分かっている。だからこそ、君には自由を、」

「優しい旦那様。ですから私、自由にさせていただきます」


 ――ほんと、優しい。好みの顔な上に性格までいいって、一体どんなご褒美?! もう、ぜったい離さないんだから!


 そう言うと、杏奈は将軍の太い首に両手を回してぎゅっと抱き着いた。

 頼もしく重量感のある体は小娘のタックル程度じゃピクリとも動かなくて、ますます杏奈の胸にときめきが積もる。


「?!」

「お慕い申し上げております、旦那様」

「っ、ありえない」

「お疑いですか? 私もまだ信じられないのです。まさか旦那様のような、理想そのものの人と結婚できるなんて」

「り、理想?」

「はい。旦那様は、私が子どもの頃から憧れた王子様です」


 夢を見ているみたい、と耳元で囁く甘い声に、ゴクリと将軍の喉が鳴るのが肌越しに伝わった。


「この顔が理想か」

「お顔もですが、お体も雰囲気も。それに、こうして気遣ってくださるところも」

「歳も上で、傷ばかりの体だ」


 しがみついていた腕を緩め、杏奈は顔を上げて彼の額に残る傷痕を見る。


 ――深い傷。無事でよかった……でも。


 切なくなってふっと視線を落とすと、将軍の寝衣の開いた胸元――鎖骨のそばにある古傷が目に入り、杏奈はそこを指先でそっとなぞった。

 将軍の胸筋がピクリと震える。


「……私が手当して差し上げたかった」


 驚いて目を瞠る将軍の前には、ただ恋をする女性の顔があった。

 表情や内心を見破るのに長けた軍人の目でも、そこには騙そうという意図を全く見つけられず――杏奈の言葉は真実だと認めざるを得なかった。


「私は政治や軍のことはよく分かりませんが、とても素晴らしい軍師でいらっしゃるとも聞いています」

「君は本当に……」

「旦那様、君だなんて。アンナとお呼びください」

「……アンナ」


 ――はうっ?! なにその、ちょっと困った呆れ気味のハスキーボイス! お腹に響くっ、どっちかっていうと下っ腹に!


 初めて呼ばれた名前に、さあっと頬を染めて恥じらうように笑みを浮かべる杏奈に、さすがに将軍も自分に本気で惚れているのを理解した。


 杏奈が自分から告白したのは初めてだ。

 口説き方なんて知らないし、恋の駆け引きなんてもっと分からない。

 そんな杏奈にできることは、羞恥心に蓋をして、ただひたすら正直に心と体で告げるだけ。


 仕方ないな、と言わんばかりに僅かに将軍の口許に笑みが浮かぶに至って、杏奈の心臓はオーバーヒート寸前だ。

 眼福です、ごちそうさまです、と内心で手を合わせ、奇声をかみ殺すのに忙しい。


 頑なだった態度が緩み始めたのをいいことに、もう一押しだ、と杏奈の中の誰かが指令を出すまま距離を縮める。

 将軍の固い手を両手で持つと、自分の頬に当てさせた。

 驚いているが嫌がってはいない。それが嬉しくて、杏奈は花が綻ぶように破顔する。


「一目惚れでした。私を貴方の妻にしてください、ヒューゴ・セレンディア様」

「……!」


 真っ直ぐに潤んだ瞳で見つめたまま、煩く鳴る鼓動を確かめさせるように、将軍の手を自分の胸へと押し当てれば――。


 強面堅物将軍は、割とあっさり陥落したのだった。







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