こどもたちのはなし 3

 学習室に、ピシリと空気を裂く音が響く。

 手の甲を鞭打たれたフロリアーナはびくりと体を竦め、固まった。


「綴りが違います」

「す、すみません、せんせい」

「書き取りを百回。済んだら次節を暗唱なさい」

「……はい」 


 じわりと滲んだ涙を堪えて、フロリアーナは重そうなペンを握り直す。

 傷が残るほどの強さで打たれたわけではないが、鞭の痕は赤くなってヒリヒリと痛む。それをさすることも許されていない。

 家庭教師のミス・リードはふんと顎を上げると、計算問題を解いているハリーのチェックに向かう。

 無言で抗議の色を浮かべた兄に、居丈高に鞭を持つ腕を組んだ。

 

「なんですか、その目は。私はあなた方にしっかりと教えるよう、奥様から直々に言われているのですよ」 

「……なんでもありません」

「全問正解するまで終わりませんからね」


 溜息を押し殺して二人は課題に向き直る。

 勉強が必要だということは分かっていても、この時間が苦痛なことに違いはなかった。


 白いものが交じり始めた濃い色の髪をぎゅっとひっつめにして、着るものは黒や鼠色の陰気くさいドレスばかり。眼鏡を触りながら厳しい視線で二人を見下ろすミス・リードは、教師というより看守のようだ。

 重い空気がこもる学習室の扉は、通常、授業が終わるまで開くことはない。

 そこに場違いなノックの音が響いて、三人は驚いて顔を向けた。


「お邪魔しますね」

「まあ!」


 ちょっといいかしら、と言いながら、許可を待たずに軽やかに入室してきたのは杏奈だった。


「はじめまして、ミス・リード。杏奈です」

「こ、これは、アンナ奥様」


 予想外の来室者に目を白黒させながら、ミス・リードは礼を取る。彼女がなにか言う暇を与えず、杏奈はにこりと邪気のない笑みを向けた。


「お願いがあって来ました。ミス・リード、私も一緒に教えてください」

「は、はあ?!」

「旦那様とジュリア様には許可を貰っています。心配なら、どうぞお確かめになって」

「ええっ?」


 言いながら、杏奈はずいと距離を縮めて、しっかりと両手でミス・リードの手を取った。

 そのはずみで鞭が床に落ちたが、ミス・リードは気づかない。


「社交もせずに地方におりましたから、王都こちらのことや、しきたりも知らないことが多いのです。相談したら、子どもたちと一緒にミス・リードに教わるよう勧められました。素晴らしく博識だからと」

「それは、ええ、光栄です」

「ハリーとフロリアーナも構いませんか、それとも私がいたら邪魔です?」

「じゃ、邪魔なんて!」

「よかった。では早速お願いします、ミス・リード」


 立ち上がる勢いのハリーと、大急ぎで首を振ったフロリアーナにほっとしたように微笑むと、杏奈は部屋の隅にあった椅子を自分で持ってきて兄妹の間に座る。

 途中で落ちている鞭をさりげなく蹴って、机の下に隠すのも忘れない。


「ところで今はなにを……フロリアーナ、これってすごく難しい詩! ハリーは算数……私、計算はちょっと得意なのだけど、私よりずっと綺麗な字だわ」

「あ、あの、奥様」

「まだ七歳と九歳でこんなにできるなんて、とっても頑張ってきたのですね。もちろん、ミス・リードのおかげもあるのでしょうけれど」


 小学一年生と三年生か、との杏奈の言葉の意味はよく分からない。だが、いい子いい子とハリーに目を細め、優しくフロリアーナの髪を撫でてくれる杏奈が感心しているのは十分に伝わってきた。

 褒められたことのない二人はどう返事をすればいいか分からず、瞬きを繰り返してしまう。


「あ、中断させてしまいました。さあ、授業を再開しましょう」

「あのっ」

「……ふふ。こんなに優秀な先生と生徒には、鞭なんて必要ありませんよね、ミス・リード?」


 すう、と雰囲気を変えてにっこりと言い含める杏奈に、口元を引きつらせたミス・リードが青い顔で首を垂れる。


「え、ええ、奥様。……はい、その通りです」


 相手に否と言わせない迫力を持つ微笑みというものを、二人は目の当たりにしたのだった。




 非常にやりにくそうにしていたミス・リードだったが、しかめっ面で険のある表情が減っていくのに、そう日数はかからなかった。

 それは、作法練習のためにと始まったお茶の時間のせいなのか、家内に籠りがちだった女史を「課外授業」と称して杏奈が城下へ連れ出すようになったためなのか、兄妹には分からない。


 相変わらず授業は厳しく気は抜けない。しかし、鞭による戒めがなくなったことに加え、ミス・リードが杏奈のアドバイスで明るい色の服を身に着けるようになると、雰囲気も和らいで、勉強の時間を気詰まりに感じなくなった。


「アンナ奥様。私、ハーブティーは特に好まないのですが、こちらは随分飲みやすいですね」

「よかった。私が合わせたミス・リード専用ブレンドだから、気に入ってくれて嬉しいわ」

「まあ、そんな!」

「女性の味方スペシャルです。リラックスできる香りでしょう?」

「ええ、とても」


 胸を張る杏奈に、わざわざ自分のために用意したと知ったミス・リードは感動の眼差しを送る。

 杏奈の言う「コウネンキショウガイ」は聞いたことがなかったが、不承不承言うことを聞いて食事や生活を変えてみたところ、理由なくイライラすることが減り、気分が落ち着くようになったのも驚きだ。


「そういえば、ミス・リード。この前また贈り物が届いて」

「はい、奥様。返礼にもマナーがございまして……」


 茶菓子の皿にはクリームたっぷりのケーキの代わりに、杏奈の好物である新鮮なフルーツが並ぶ。

 和やかに社交のあれこれを語る大人の話に耳を傾けながら、同席する二人の子どもは瑞々しい果物を頬張って、穏やかに時間が過ぎるのだった。







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