「海の上で」 (1)
事件は一隻の小型艇が宇品の桟橋に戻って来た所から始まる。
五式連絡艇と称する陸軍の小型艇だ。排水量二〇トンほどの小さな船がゆっくりと桟橋に横付けする。
「誰か?その船に乗っているのは?」
桟橋の警衛に立つ土橋上等兵が連絡艇に呼びかける。
この桟橋は宇品に司令部を置く陸軍船舶司令部の敷地内にある。だから警備に立つ兵士が居るのだ。
連絡艇が止まると一人の男が船内からフラリと出て来た。
「船舶司令部業務隊の笹井軍曹だ」
その男はそう答えた。
「怪我をしてますね。どうしました?」
土橋は笹井を見て尋ねる。
早朝の薄く明るくなった中でも笹井が頭と左腕から血を流しているのが分かったからだ。
「撃たれた」
「誰に?」
「海軍に」
「海軍が?」
だが笹井は姿勢を崩し、連絡艇の縁に捕まりうなだれる。
「事情を聞くよりも先に手当だな」
その土橋は笹井を手当の為に運ぶべく警衛詰所に居る上官の古川軍曹へ報告する。古川軍曹は担架で軍医の所へ運ぶよう命じた。
笹井は担架に乗せられると安堵したのか意識を失った。
この日の午前九時に神楽坂冴子憲兵大尉は宇品の船舶司令部に来ていた。
帝国陸軍には船舶を運用する船舶兵と言う兵科がある。その船舶兵の部隊である船舶兵団を指揮する船舶司令部が広島市の宇品に置かれている。
「大尉、お待ちしておりました」
広島憲兵隊宇品分遣隊の佐々木中尉が出迎えた。
「ご苦労、今の状況の説明を」
冴子は三宅と末松を連れながら佐々木に説明を求めた。
負傷した笹井軍曹が連絡艇で戻って来たと言う一部始終を冴子は中国管区憲兵隊司令部で聞いていた。
「笹井軍曹は宇品の陸軍病院に搬送し入院中です。連絡艇には二人の遺体が確認されました。岡田少尉と高野伍長であると確認されました」
「負傷一人に死者二人か。やられたのは銃撃か?」
「はい。連絡艇に弾痕がありました。5.56ミリの小銃と思われます」
「そんな武器を使うのは抗日義勇軍かしら」
冴子がまず浮かんだのは反日武装勢力である抗日義勇軍である。中国大陸を中心に東南アジア各地でも活動する過激派組織であるが日本本土にも侵入してテロ活動を行っている。
「その事で少し込み入った話があります。詰所へ行きましょう」
佐々木が船舶司令部の敷地内にある宇品分遣隊の詰所へ案内する。
二階建てで長方形のビルが宇品分遣隊の詰所だった。佐々木は自分の部屋である隊長室へ冴子達を招き入れる。
「かなり外部に聞かれたくない事なのね」
佐々木の慎重な態度に冴子は事情を察する。
「そうです。これは船舶部隊の内部も疑う事ですので」
佐々木の切迫した顔で言った。
「連絡艇には小銃二丁と拳銃一丁が見つかりました。それらの銃の弾薬も百発以上が船内にありました」
「武装して夜の海に出ていた?」
「はい。そこが不審な点でして。船舶司令部に問い合わせると昨日の午前に夜間航行訓練を行うと岡田少尉が申請していたそうです」
「許可はすぐに出た?」
「岡田少尉が所属している船舶司令部業務隊の白井少佐から許可が出ています」
「後で白井少佐に会う必要があるわね」
「大尉、もう一点不審な点があります。笹井軍曹は自分は海軍にやられたと言ったそうです」
「それは本当か?」
「宇品に戻って来た笹井軍曹と最初に会った土橋上等兵がそう聞いたそうです。肝心の笹井軍曹は今も意識不明で確認ができませんが」
「厄介な事件になっているわね。佐々木中尉、船舶司令部や宇品の各部隊から司令部業務隊について探りを入れてくれ」
「分かりました」
「大尉、我々はどうしますか?」
宇品分遣隊の詰所を出ると三宅が冴子に尋ねる。
「白井少佐に会うわ。末松少尉は県警の知り合いに岡田少尉または笹井軍曹・高野伍長が娑婆で何かしていないか訊いて」
「県警にですか?」
末松は少し不満らしい。
「不満があるのかしら?」
「正直に言います。あまり県警に借りは作りたくありません」
末松の反応に冴子は最初は驚いたがすぐに理解した。
「県警にと言うより家族に借りを作りたくないのね」
「・・・そうです。私の私情だけではなく、借りは大尉にも降りかかります」
複雑な末松の思いを冴子は理解する。
末松は父親と兄が県警の警察官だった。警官一家として同じ道を歩むのが嫌で陸軍に志願した末松にとっては進んで県警の協力を求めたくはないのだ。
「少尉の思いは分かった。確かに県警に借りを作るのは面白くない。でも軍以外の情報源も欲しい」
「今回の事件が軍内以外に広がっていると?」
「勘の域だけどね。そうだ、ケン坊の所に行って何か情報が無いか聞きに行きなさい」
ケン坊は冴子と幼馴染の暴力団の構成員だ。末松は以前一度だけ顔を合わせているが話はしていない。
「反社(反社会的勢力)に借りを作る方が良くないと思えますが・・・」
末松は県警に借りを作るよりも危険ではないかと危惧する。
「少尉、憲兵としてこの先も職務を続けるなら。もう少し汚れた方が良いな」
「汚れですか」
「軍曹、少尉と一緒にケン坊の所へ行ってくれ」
「分かりました」
「では、私は白井少佐に会う」
冴子は一人白井の所へ向かい、末松と三宅は乗って来た七三式小型乗用車に乗り流川へと向かうのだった。
「中国管区の憲兵が?まあ、通せ」
船舶司令部の庁舎内にある船舶司令部業務隊本部に冴子が訪れると業務隊の隊長である白井少佐は面倒臭そうに面会すると決めた。
「一時間前にも佐々木中尉から事情聴取を受けたのですよ。何を聞きたいのですか?」
白井の居る業務隊隊長の部屋に冴子が入るなり白井は悪態をつく。
「少佐が許可された夜間航行訓練についてです。岡田少尉は連絡艇に銃器と弾薬を持ち込んで海に出たようですね。ご存知ですか?」
冴子は白井の態度を意に介さず疑問をぶつける。
「抗日義勇軍であるとかテロの可能性も少なからずある。多少は自衛の武装はして良いと許可はした」
「少佐、武装の許可は船舶司令部の司令官にあると思うのですが」
「そうであったか、それはうっかりしていた」
白井はとぼける。
「岡田少尉は何者かと銃撃を交える交戦をしていました。交戦が起きるような心当たりはありますか?」
冴子は別の部分を問い合わせる。
「それこそ抗日義勇軍ではないかね?」
「そうした交戦の危険があるのに少佐は夜間訓練の許可を出したのですか?」
「岡田少尉らも異動で外地に行けば危険性の高い水域で行動する事になる。慣れさせる為に訓練を許可したのだ。とはいえ、三人とも死傷するとは思わなかったが」
冴子はこれ以上、白井から聞き取れる情報は無いように思えた。
「少佐、最後に一つだけ。海軍とは問題は起こしてはいないですか?」
「海軍?問題は無いぞ。事件に関係があるのか?」
「それは分かりません。あらゆる可能性を調べていますので」
「そうか。では、もう良いな?」
白井は終始、冴子に対してぞんざいな対応だった。
冴子は白井に追い払われるように部屋を後にした。収穫は無かったが白井が事件に関わっているのは確かだと冴子は確信する。
独断での武装許可は何かが分かってやっていると。
「尻尾は何処でつかめるか」
冴子はどうこれから捜査をするか考えながら船舶司令部の廊下を歩く。
広島市中区流川
かつての広島藩主の浅野氏が作った大名庭園の縮景園から流れる川を大正時代に埋め立てたのが流川である。
この流川は広島市の歓楽街として栄えている。
そんな街に午前十時ごろ末松と三宅が訪れる。
夜の賑やかさとは真逆に午前の流川は静かだった。夜の営業を終えてどの店も閉めている。人通りも少なく店舗へ酒類や食品などを納品する業者ぐらいしか流川の通りには見当たらない。
「人が少ないとはいえ浮いているような気がするな」
末松は軍服姿で歩く自分と三宅が朝を過ぎて静かとはいえ歓楽街を歩くのがどこか不自然に思えた。
「少尉はこういう所は来ないのですか?」
「部隊での飲み会ぐらいだ。自分からは行った事が無い」
「それではこれから行く所も未経験ですな」
「まさか、あの奥か?」
末松は知っていた。流川の通りを一区画奥へ進むと薬研堀の風俗店が並ぶ地区である事を。
「ご存知でしたか」
三宅はにやりと笑う。
「行った事はないぞ。あくまで情報として知っているだけだ」
「少尉殿、今度自分が良い店を案内しますよ」
「結構だ」
三宅にからかわれながら末松は薬研堀の通りに入る。
こちらは流川とは違い営業中で店舗は開いている。
ただ店舗が並ぶ前を歩くだけでも末松は落ち着かない様子だった。
「少尉、これぐらいで戸惑ってはいけませんぞ」
三宅はさすがに心配そうに言った。
「分かっている」
末松はそういうがソワソワしたような態度は変わらない。
そうしている内により奥の通りにある三階建てのビルの前に立つ。そこがケン坊の居る「甲田組」の事務所である。
「中国管区憲兵隊の末松少尉だ。若頭補佐の浅川健次郎さんに会いに来た」
事務所の玄関で末松は丸坊主で口髭を生やした組員に睨まれながら来訪した事を伝える。
「少し待って下さい」
低い声そう告げて組員は事務所の奥へ行き、別の白いジャージを着た組員が末松と三宅を見張る。三宅は平然としているが、末松は毅然としているフリをしているが落ち着かない様子は顔に出ている。
「どうぞお上がりください。若頭補佐がお会いになります」
丸坊主の組員に案内されて末松と三宅は甲田組の事務所に入る。
「お~アンタか。前にドイツ人とロシア人の事件で会ったな」
ケン坊こと浅川健次郎は末松と三宅をにこやかに出迎えた。にこやかとは言え、キツネ顔の細目には不気味さがある。
「あの時はご協力感謝します」
「そう固い事言うなよ。まあ、そこに座って気楽にしれくれ」
ケン坊はそう言うが末松は気が抜けない。とりあえず、末松と三宅はケン坊が勧めたソファに座る。
「さて、何の用事かな?」
ケン坊も座って末松と対面する。
「最近、軍関係で何か知っている事はありますか?」
末松はこう言ったがケン坊は頭をかく。
「少尉さん。それは大雑把過ぎる。もう少し詳しく言うてくれんかな?」
ケン坊にこう言われて末松は咳ばらいをしてから言い直す。
「宇品の陸軍部隊に関して何か情報は知っていますか?」
ケン坊はそれ聞くと「あ~それなら」と答える。
「宇品の陸軍から時々薬物やら象牙とかの密輸品が出回ってる」
「宇品の陸軍部隊が貴方達へ売りに来ているんですか?」
「そうだ。宇品の港はウチのシマじゃけえな」
宇品の港は陸軍の船舶部隊と民間の埠頭が隣り合っている。甲田組は民間の宇品港を縄張りとしている。
「確か白井少佐だったな売りに来たのは」
「白井少佐と言うと船舶司令部業務隊のですか?」
「そうじゃ。そいつが何かあったんか?」
末松は事件を公開するか一瞬迷ったがケン坊がここまで情報を明かしたのだからと交換のように答える事にした。
「白井少佐の部下が何者かに殺害されました。この捜査を担当する事になった神楽坂大尉は事件が軍内以外に広がっていると推測しています」
「さすが冴子じゃのう。勘が良い」
「何か証拠になるような物はありますか?」
末松がそう言うとケン坊の顔は険しくなる。
「それは無い。すまんが無いんじゃ」
「出来れば密輸した現物か取引した帳簿があれば良いのですが」
「少尉それは無理です」
まだ求める末松に三宅が止める。
「軍曹どうしてだ?」
「いけませんこれ以上は」
三宅は末松の問いに首を横に振る。
「軍曹さんの方が賢いのう。とにかく出せる物は無いんじゃ。分かってくれ」
こうして末松の甲田組の訪問はどこか歯切れが悪い終わり方をした。
「軍曹、どうして止めた?」
甲田組の事務所から出ると末松は三宅に問い質す。
「密輸の証拠を出せと言われて出しますか?自分から犯罪の証拠を出すなんてありえませんよ」
末松は赤面した。
「すまなかった軍曹、私が未熟だった」
末松は冴子が言った「少し汚れた方が良い」はこう言う事かと思い返した。
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