「海の上で」(8)
「白井少佐、お話があります」
佐々木中尉を三宅に見張らせ、冴子は末松と共に船舶司令部業務隊本部に来ていた。
目的は白井少佐と話す為だ。
「今度は何かね?」
白井は机の上にある湯呑のお茶を飲み干してから冴子に尋ねる。
「事情聴取をしますので同行をお願いします」
「任意かね?」
「はい。ですが、応じて頂きたい」
さすがに冴子は階級が上と言う以上に、疑いがあるだけで連行しようとしているので低い姿勢である。
「ふむ、宇品分遣隊の佐々木中尉を呼んでくれんか?」
白井は同行に応じるか否か決めず佐々木を呼ぶ。
「佐々木中尉は今回の事件の関係者として私の部下が身柄を確保しています」
「それは本当か?」
白井は佐々木が捕らえられている事に驚きを見せる。
「本当です。現在、分遣隊本部の一室で拘禁しています」
冴子の答えに白井は「ふー」とため息を吐く。
「そうか。分かった、同行に応じよう」
白井は冴子と末松によって連行される事になる。
「事の始まりは岡田少尉が着任して二カ月ぐらい過ぎた時だった」
中国管区憲兵隊本部に連行された白井は取調室で始まりについて話す。
「岡田は上海から異動して来た。向こうの部隊で推薦をされて下士官から少尉になったと聞いて古参の良い部下が来ると思っていたが、悪党だった」
白井は思い出す為か遠くを見るように天井を仰ぐ。
「着任当初からですか?」
冴子は尋ねる。
取調室には白井と向き合う形で冴子と調書を作る末松が居る。
「着任当初は下士官特有の豪胆な態度だった。だが、二カ月後にいきなり豹変した」
「何があったのですか?」
「岡田少尉は俺に金に困ってますねと言って来た。確かにその通りだったのだがね」
「その理由をお話して頂けますか?」
「博打での借金だよ。大尉だった時に遊んだツケを払い続けていた」
「その借金の存在を岡田少尉が知って脅して来たのですね?」
「あれは脅しでは無いな。誘惑のようなものだった」
「少佐は岡田少尉の誘いを断ろうと思えばできたのですね?」
冴子は意地の悪い質問をする。
「思えばそうだ。しかし躊躇無く応じてしまったのだよ」
白井の言葉はどこか他人事のようだ。
「少佐は、お金の為に岡田少尉に協力したのですね?」
「その通りだ」
素直に認めている白井だが、罪の意識が感じられないあっさりさだった。冴子は苛立を憶え始める。
「大尉は金の為に軍紀を乱したと呆れているだろう」
白井の問いに冴子は「否定はしません」と毅然と答える。
「部下が起こした事故の責任を取らされ軍歴にケチがついた。ようやく四〇を前に少佐に昇進した。俺はあと十年ぐらいで大佐で退役かと思うと金を幾ら残せるかしか関心が無くなったのさ。博打の借金を返さないとならないし尚更金の事が第一になった」
冴子は白井の自供を黙って聞く。
「そこへ岡田少尉が儲け話を持って来た。丁度良いと思った。だから協力したのだよ」
不正に手を染めた白井の理由が手前勝手で冴子は呆れた。
昇進の道に限界が見えて、自棄になったから不正に加わる。同情する余地が無い。
白井の博打の借金も部下が起こした事故の責任(監督責任だろう)を負った後で自棄になった時に出来たものだろう。自棄になる心理は分かるが大きな借金になるまで自制できないのも同情できない部分だ。
「少佐、小官は少佐が積極的に岡田少尉に協力したものと思えますが」
皮肉を込めて冴子は言う。
「間違いはない。誤魔化しても佐々木中尉が本当の事を言うだろうしな」
開き直りか。冴子は鼻で思わず嘆息する。
「しかし、暴力団との取引に出向くなど、岡田少尉に使われているのは少佐として思うところは無かったのですか?」
冴子は白井の自尊心をあえて刺激する。
白井が岡田少尉に協力する時の心理を探る為だ。
「無かったな。事故のせいで揚陸船を降り、港の雑用部隊に回されてから少佐になっても何処か空虚に思えた」
「そんな考えを持ったのは、海上勤務から外れたせいですか?」
「そうかもな。俺の故郷は山奥でね、子供の時から海と船に憧れていた。艦長か船長になりたかった。海軍兵学校の試験に落ちたが、陸軍士官学校に受かったので船舶部隊を志望した。最初は大発(帝国陸軍の上陸用舟艇)に乗り、連絡艇や警備艇の艇長をやった。それから揚陸船<吉備津丸>で副長になった。大型船の船長まであと一歩だったが…事故のせいで船から降ろされた。軍人をやる意味が無くなったのだよ」
白井にとって船を降ろされる事の落胆がどれほどのものか冴子はようやく分かった。
「こんな少佐で笑えるだろう?」
「いえ、小官には、私には笑う事はできません」
「そうか」
二人の間が静かになる。
「大尉、ここで煙草を吸っても良いかね?」
「いいですよ」
冴子は自分が持っている煙草を差し出し、自分のライターで火をつけてやる。
「他に聞きたい事は無いか?」
煙草で一服すると白井は冴子の質問に何でも答えた。
失望から立ち直れずに居た哀れな男に向ける冴子の目は、最初の険しさから少し穏やかになった。
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