「海の上で」 (6)
翌朝、冴子の持つ携帯電話が鳴った。
時間は午前六時半、コンビニで昨晩買ったトーストサンドで朝食を中区本川町のアパートで済ませた時だった。
電話は有川からだった。
「おはようございます大尉、宇品から連絡がありました」
未だ寝ぼけ眼の冴子であったが、宇品分遣隊が何か連絡を寄越した事は理解できた。
「何か分かったの?」
冴子はぼんやりと尋ねる。
「笹井軍曹が病院から抜け出したそうです」
「まったく、厄介な」
この急報に冴子はぱっちりと目を覚ました。
事件の関係者、まして当事者と言える笹井が姿を消した事は冴子にとっては頭痛の種みたいなものだ。
「これで笹井軍曹は、自分から事件に関して黒ですと白状したも同然ですね」
有川は言う。
「でも、笹井軍曹を探す面倒な仕事が増えた事に変わりないわ」
冴子は愚痴のように言う。
「では小官は捜査に戻ります」
有川はそう言って電話を切った。
「有川中尉はもう出ているの?まさか徹夜?」
思えば有川はどういう状況で宇品分遣隊からの連絡を受けたのだろうか?
そして捜査に戻ると電話を切った。
「有川中尉は動いているのは確かね。遅れを取ってはいけないな」
冴子は着替えながら有川を見直し、自分により働けと言い聞かせる。
それは自分の階級章の重さを感じてもいたからだ。
「この状況、坂堂に言っておくか」
冴子は再び携帯電話を取り出し、呉の海軍警務隊の坂堂へ笹井軍曹が逃走した件を伝える事にした。
陸軍の不始末だが、もはや海軍が絡む以上は秘密にする必要は無い。
隠したとして変にこじれたくはないからだ。
冴子が中国管区憲兵隊司令部に出勤すると末松が笹井軍曹について報告をした。
「宇品へ行くわ。三宅軍曹へ車の手配を」
冴子は末松と三宅を伴い宇品を目指す。
「宇品分遣隊には連絡した?」
移動する車中で冴子は末松に尋ねる。
「はい。佐々木中尉にこれから行くと連絡済みです」
「佐々木中尉は居るのね?」
「はい」
「よろしい」
冴子の「よろしい」は何がよろしいなのか末松には分からなかった。
宇品分遣隊の隊舎に着くと佐々木が出迎える。
「神楽坂大尉、申し訳ありません。笹井軍曹に逃げられました」
佐々木は敬礼するなり冴子へ謝る。
「現在、我が分遣隊と船舶部隊から補助憲兵を出して笹井軍曹の捜索をしています」
「そう」
冴子は佐々木の説明に素っ気ない。
「捜索の指揮所を分遣隊本部内に設けていますので案内します」
佐々木は冴子を案内する。冴子達は分遣隊本部内へ連れ立って入る。
「指揮所よりも先に佐々木中尉にお話があります」
冴子は佐々木に話しかける。
「はい」
「捜査に関する重要な事です。少し込み入った話をします」
「分かりました。では奥の部屋へ」
佐々木は冴子の様子から内密の話をしたいのだろうと感じた。佐々木は会議室が指揮所に使われている為に取調室へ冴子を案内した。
「すみませんね。ここぐらいしか空いていませんので」
佐々木はすまなそうに言う。
「いいえ。むしろここが良い」
佐々木には冴子が少し笑みを浮かべたように思えた。
「じゃあ、お話を始めましょうか」
冴子がそう言うと佐々木を取調室へ押し込むように冴子は三宅と末松と共に入る。
一番後ろの三宅が取調室のドアを閉めて鍵をかける。
鍵を閉める音に佐々木が異様さに気づく。
「何の話をするのですか?」
少し物怖じする佐々木
「佐々木中尉、貴官は一年前に流川でホステスを殴ったそうね」
この冴子の問いに佐々木の顔は凍りつくように固まった。
「……はい、ですが示談が成立しています」
少しの間を置いて、佐々木は強張った声で答える。
「その示談は岡田少尉によってでしょ?」
佐々木は「どうしてそれを」と思わず言ってしまう。
「ある筋から聞いたのよ。岡田少尉が事件を収めたとね」
冴子は昨晩、ケン坊と会っていた。
冴子はケン坊から白井少佐について聞こうとしていた。
「白井は少佐のクセにガキの使いじゃ。大した奴じゃねえ」
ケン坊は蔑むように白井を語る。
「白井は誰かに使われとるって事なん?」
「白井は岡田と言う少尉に使われとる。岡田は叩き上げの兵隊から少尉に出世した奴じゃけん、少佐を手玉に取るぐらい出来るんじゃろう」
ケン坊の証言は冴子が岡田が下剋上をしていると言う推測の答え合わせになった。
「岡田と言や、宇品の連中で面白い話がある」
ケン坊が何かを思い出した。
「宇品におる、佐々木とか言う憲兵。あれが流川で女を殴って、岡田がケツ拭いたんよ」
「それ本当なん?」
「本当じゃ、なんせウチのシマでやったからの」
時は一年前に遡る。
広島市の繁華街である流川
そこにある一軒のキャバクラで事件は起きた。
この日、初めて来た客である佐々木中尉はこの店のホステスである二〇代前半の女を殴った。
近くに居た別のホステスによれば「俺の気持ちが分かる訳ねーだろ!」と罵った上でホステスを殴ったと言う。
殴られたホステスが言うには、「こんな田舎の地方に回されて左遷みたいだ。俺の気持ちが分かるか?」と佐々木は問うたと言う。
ホステスは気を利かせて「確かに広島は田舎ですものね。東京や大坂とは違いますから」
と相槌を打つ。
佐々木は続けて「東京とか、大阪じゃなくてもいいんだ。俺はな、外地の上海とか新京とかに行って手柄を立ててえのに、こんな広島に異動させられた」と喚く。
さすがに声も大きくなり、周囲が佐々木に白い眼を向け始める。
店のママは面倒が起きそうだと感じ、ケン坊に連絡を入れた。憲兵に連絡しても良いが憲兵が押し掛けては店の雰囲気も悪くなると判断してだった。
電話を入れた直後に事件が起きる。
佐々木がホステスを殴ったのだ。店内は騒然とする。
いきなり殴られてホステスは鼻血を流しながら泣いた。
「私も気持ちは分かります。広島を出て働けたならなあと思った事がありまして」とホステスが共感していると言った時だった。
佐々木はそれを聞いて「俺の気持ちが分かる訳ねーだろが!」と言いながらホステスを殴ってしまったのだ。
すぐに店のボーイが佐々木を羽交い絞めにして店の奥に連れて行く。殴られたホステスはママが介抱した。
ケン坊が来た時には店の事務室に佐々木は居た。
ふてぶてしい態度で「俺は憲兵中尉だぞ!俺に何かしたら逮捕すんぞ!」と喚いている。
「ずっとこんな調子です」
ボーイは困った顔でケン坊へ訴える。
「蹴りでも一発入れたか?」
「いいえ」
だが、ボーイの顔はホステスの代わりに佐々木を殴りたそうである。
「よう我慢した。後は任せい」
ケン坊はボーイを下がらせた。
「憲兵さん。名前は?所属は?」
「中国管区広島地区憲兵隊の宇品分遣隊、佐々木中尉だ。分かったら俺は帰るぞ」
佐々木は酒臭い息を吐き出しながら答えた。
「宇品か」
ケン坊は携帯電話を取り出すと岡田に電話をかけた。
「夜にすまんのう。宇品の憲兵で、佐々木中尉て言う奴がウチの店で女を殴ってよ。来てくれんか」
電話から二〇分後に岡田はやって来た。
「憲兵中尉殿困りますな。民間人にしかも女を殴るとは、しかも軍服着たままで」
岡田は一応は憲兵であり、中尉である佐々木を敬うように言う。
「なんだ、少尉が説教するのか?」
岡田の階級章を見て佐々木が悪態をつく。
「お前こそなんだ?中尉のクセに分別もできてねえじゃねーか!」
岡田は豹変した。
「なんだと、その態度は!」
佐々木はいきり立つ。
「じゃあ、今から憲兵隊に連絡してお前を逮捕して貰おうか」
「そっそれはいかん」
岡田がそう言うや佐々木の口調は弱くなる。
「泥酔して一般人の女を殴った。これが公になって逮捕されれば、お前の軍人としての経歴は終わりだ」
佐々木は岡田の指摘に反論ができない。
「どうすれば良い?金を払えばいいのか?」
佐々木はさすがに酔いが醒め、弱々しく言う。
「今から俺の子分になれ」
「子分、どう言う事だ?」
酔いが少し醒めたが佐々木にはよく分からない。
「こういう事だ」
岡田は佐々木の腹に拳を叩き込む。
佐々木は岡田の拳が胃の辺りを刺激したせいで、嘔吐した。
「きたねーな」
吐しゃ物が広がる床をのたうち回る佐々木をケン坊は見下す。
「おい、佐々木!お前のせいで汚れた床を掃除しとけ!」
岡田が命じる。
「なんで俺が」
「できないのか?」
岡田が睨むと佐々木はさすがに察した。
この階級が下の筈の少尉には逆らえないと。
佐々木はフラフラに立ちながら自分が吐いた物を新聞紙で包み、モップで床を拭く事になる。
こうして佐々木憲兵中尉は岡田少尉の子分となってしまったのだ。
「浅川さん、すんません。この件のお返しは今度の納品で返します」
岡田はケン坊に頭を下げながら提案する。
「ウチのホステスの顔を殴ったんじゃ。女の顔を殴ったのは安くは済まんぞ」
ケン坊は岡田を詰める。
「では、三日後に届けます。御代はいりませんので」
「ええじゃろう」
こうして殴打事件は岡田により処理された。
佐々木は岡田に大きな借りと弱みを握られ憲兵でありながら子分となってしまったのだ。
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