「海の上で」 (5)
「大尉は事件の首謀者を掴みましたか?」
有川は冴子へ尋ねる。
「まだ推測だが、船舶司令部業務隊の隊長白井少佐ではないか?」
冴子の答えに「私は違うと思うんです」と有川は言う。
「大尉は白井少佐とはお会いに?」
「会ったわ。とぼけた態度だったけどね」
「やはり、そうでしたか」
どうやら有川は白井少佐について何か知っているようだ。
「知っている事がありそうね」
「はい。探ってみて、白井少佐はそれまで黒い部分はありませんでした」
「真面目だったと言う事?」
「そうです。しかし、十年前に揚陸艦で起きた事故の責任を負わされてからは、海上勤務から地上勤務に回されています」
「それで真面目さを捨てて、密輸に手を出した?」
「真面目さを捨てては合っていると思います。しかし、密輸の首謀者では無いと思います」
「つまり、白井少佐は利用されていると?」
「基地業務隊を密輸に関わらせる為に白井少佐が使われていると、私は睨んでいます」
「では、黒幕は誰なの?」
「そこはまだ。船舶司令官や船舶司令部の参謀も白でした」
有川の捜査も行き詰っていた。
「白井少佐の部下は?下剋上も可能性はあるでしょ」
冴子は視点を変えて見ようと思った。
「下剋上をやりそうと言えば・・・岡田少尉でしょうか」
有川は業務隊の将兵を思い出し可能性を探し出した。
「死亡した岡田少尉?」
「そうです。少尉は少尉でも、下士官から予備士官学校を出て任官しています」
予備士官学校は一般大学を卒業した高学歴者を士官に育成する陸軍の教育機関だ。また、下士官から推薦や志望で幹部候補生として入校し、士官へ昇進する道が開ける学校でもある。
岡田少尉は下士官の曹長に就任した時に幹部候補生に志願し、予備士官学校を卒業して少尉になっていた。
「叩き上げの少尉か。下剋上はできそうね」
「では岡田少尉について調べてみます」
有川はそう申し出た。
「いや、そこは私達がするわ。有川中尉には船舶部隊以外の周囲を調べて貰いたい」
冴子は有川へ依頼する。
「周囲ですか。それは何故ですか?」
「甲田組が取引をしていた。そうなると船舶部隊以外、民間を含めた所も関係している可能性は大きい。もしかすると黒幕は船舶部隊の外かもしれない。それに、船舶部隊の方で私達が動く方が捜査に有川中尉が加わった事を少しの間は察知されない」
「合理的な考えですね。とても良い」
有川は冴子の考えに賛同した。
冴子は有川との話し合いを終えると、書類仕事をしてから一旦市内にある自分が借りたアパートに帰り、この日の業務を終えた。
冴子は私服であるジャケットにスラックスに着替える。平正の帝国日本におけるファッションは日米国交再開が成された1980年代から、欧米のデザインも取り入れられていた。
冴子は中国憲兵隊司令部を出て、そこから相生通りの広島電鉄紙屋町東の電停へ向かう。その途上。
「おう、冴子」
相生通りで冴子はケン坊に呼ばれた。
「今日はウチの部下が失礼をしてしまったわね」
冴子は陽気に話しかけるケン坊へ、末松の事を詫びた。
「あれは真面目過ぎていかんのう」
「そうやね。もう少し大人になってくれんとね」
ケン坊の態度から冴子も柔らかな態度に変える。
「ところで、何か用事があるんでしょ?デートのお誘いには見えんけど」
冴子はケン坊の目的を尋ねる。
相生通りで会ったとはいえ、今日の甲田組へ末松が行った日だ。自分に合う為に待っていたのだと冴子は思えた。
「さすが憲兵さんじゃ。偶然会ったように誤魔化せんのう」
二人は大通りの歩道を歩きながら話す。
冴子が行こうとしていた広電紙屋町東電停の前を通り過ぎる。
紙屋町は紙を扱う商人が居た事に由来する地区だ。平正の帝国日本の広島も大手家電量販店や大型複合商業施設・飲食店が並ぶ繁華街だ。
そのせいか人通りは多い。そんな中を二人は歩いている。
「船舶部隊の件でしょ?」
「そうじゃ。まあ、どっかの店で話そうや」
ケン坊は本通りに並ぶ飲食店の灯りを眺めながら言う。
「さすがに、事件に関係がある人間と呑む訳にはいかないわ」
冴子はケン坊の誘いを標準語で断る。
「そうじゃの。立場があるけん仕方ない」
ケン坊は冴子の返事と態度を理解する。
二人は紙屋町の歩道を西へ歩く。会話を交わすが末松についてからかうような話だ。
紙屋町の反対側の基町には市民球場があり、通行人が多い。対して紙屋町側は西へ、元安川に近づくと喧騒は遠ざかり、広島県立産業奨励会館の傍まで来た。
賑やかな繁華街を少し離れた位置にある産業奨励会館
明治時代に建設された独特のドーム型の天井が特徴的なこの建物は、展示会などの催し物を行う会館だ。
その為に夜には静かになり、周囲の通行人も少ない。
「さて、こうして来たんは船舶部隊とウチの組についてだ」
ケン坊は少し周りに人が居ないのを確かめてから話を切り出す。
「取引をしていると聞いたわ」
「その取引でウチの組も捜査するんか?」
「その必要は無いと今は思っている」
冴子は固い表情と顔で答える。
「必要があったらやるのか?」
「そうよ。だけど、事件の焦点はそっちじゃないわ」
「どういう事だ?」
「これは極秘だからケン坊だけに留めておいて」
冴子は断りを入れる。ケン坊は「分かった」と即答する。
「この事件は、船舶兵と海軍で死傷者が出る事件になっている。あんたの組との関係は憲兵隊じゃ捜査の対象外よ」
「それを聞いて安心した」
ケン坊は胸をなで下ろす。
「組がどうなるか聞きに来た訳ね」
「そうじゃ。これで用事は済んだ、じゃあの」
ケン坊は冴子の前から去ろうとする。
「ケン坊、私が船舶部隊と組の事を県警に密告するとは、思わないの?」
冴子はあえて聞いた。
「それも考えたさ。けどよ、憲兵がそこまで県警と仲良しとも思えんからなあ」
ケン坊はあっけらかんと答えた。
平正の時代になっても帝国日本の警察と軍の関係は良好とは言えなかった。
むしろテロ対策が重要度を増す中で互いの領分や権限を争う状況になっている。そんな関係性を思えば県警へ憲兵が情報提供をするとは思えなかったのだ。
「私はそこまで、警察が嫌いじゃ無いわよ」
冴子が言うとケン坊の顔が少し硬くなった。
「何じゃ、俺を脅すんか?」
「そうよ。だから船舶部隊、特に白井少佐について教えてくれない?」
「そういう事か。ええじゃろ」
ため息を吐きながらケン坊は、冴子の要求に応じる事にした。
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