「姉妹」中編
広島市中区の大手町にあるドイツ企業「ライン商会」
ここはドイツ製の家具や雑貨を日本に輸入して販売する企業だとされている。
三階立ての一階がガレージになっているビルには時折商品らしい椅子やテーブルなどが持ち込まれてはいる。
だが実態はドイツの諜報拠点だった。
日本とドイツは同盟国であるが同盟国の内部を探る諜報をしない訳ではない。また日本を拠点に極東の情勢を探る意味もある。
企業を隠れ蓑にスパイをしているのがライン商会だ。
そのライン商会に十人の男達が訪れた。
格好は私服で観光客のように見えるがどれも体格が良く目は鋭い。見る者が見ればあれは兵隊だろうとすぐに分かる男達だった。
「さすが武装SSの特殊部隊だ。見るだけでも頼もしいですな」
ライン商会の日本支店長であるバーレは来訪した同胞を見て素直に感嘆する。
「公にされてはいないが、ロシアや中東での実戦を経験している。本当に頼もしい兵達だよ」
ウルリヒ・ベンカーSS中尉はバーレに自分の部下達を自慢する。
ベンカーら兵士達はSSと呼ばれるナチスドイツのナチス党とその体制を守る親衛隊の戦闘部隊だ。
武装SSの特殊部隊は総統またはSS長官からの命令によって出動する。
そんな彼らが広島へ密かに来たのはフィーネを取り戻すためだ。
「私は頼みにしているのだよSS中尉」
ベンカーへ冷や水を浴びせるように言うのはルーペルト・ザッハー博士だった。
フィーネの奪還に武装SS特殊部隊を呼び寄せた男である。
「50233号はゲルマン人の世界に一石を投じる逸材なのだ。なんとしてでも取り戻さねばならない」
50233号とはフィーネがドイツの研究施設で名付けられた名前だった。
「写真を見ましたがあんな子供が大事なんですか?」
フィーネの写真を見ていたベンカーはザッハーへ疑問を投げかける。
「価値が分からないのか?ならば教えてやろう。50233号は悲願であったアーリア人の超人を完成させたのだ」
「超人? 」
「しかも50233号は人工的に作ることができた初めての超人なのだ。研究対象としてまだまだ調べ試す事が多い、逃がしてはいかんのだ」
ベンカーはザッハーの異常な熱意に当てられてこれ以上の質問を重ねようとはしなかった。
ザッハーが言う「超人」と言うのもオカルトじみた変な話にしかベンカーは思わなくなった。
「晴れはheiter(ハイター)」
「heiter」
フィーネはレーナにドイツ語を教えていた。
フィーネは口で発音して紙に単語を書き込みレーナに教えた。
「二人ともすぐ仲良くなったね」
クリストフはフィーネとレーナが仲良くなるかが心配だった。
多感な少女である。ましてや言語の違いがお互いに溝を開けないか心配だった。
だがフィーネが積極的にレーナに分かる言葉で話してコミュニケーションを取った事で二人は打ち解ける事ができた。
「問題はいつここから出発できるか」
ユリヤは心配げに言う。
広島に来てから三日目になる。
日本のマフィアもとい暴力団が弁当での食事を差し入れるので食べる事に困らなかった。
だが外に出る事は禁じられていた。
広島市内を白人四人が歩くと目立つからだ。
この時代になると日本は米英との融和を徐々に進めていたが白人の外国人が日本に居るのは珍しいものだった。
目立てばこの密入国が警察など日本の当局に見つかりクリストフとフィーネが強制的にドイツへ帰されるかもしれない危険があった。
四人が寝泊まりするこのアパートの部屋にはテレビがある。日本語は少ししか分からないがクリストフとユリヤは日本のテレビ番組に少しだけ退屈を紛わらせていた。
「今の俺達は運を天に任せるしかない。待つしかないよ」
クリストフはユリヤの背中を抱きユリヤの不安を宥める。
望んだ逃亡とはいえ知らない異国の街で明日も知れない状況はユリヤだけではなくクリストフも不安にさせていた。
そうなるとこれで良かったのか?と口にできない後悔をする。
その後悔を消す為にクリストフはフィーネの顔を見る。
レーナと語学で遊ぶ楽しげなフィーネ
こんなフィーネの笑みはレーナと出会ってからよく出るようになった。この笑顔はドイツでは見られなかった。
ドイツに戻ってなるものか。と自分に言い聞かせて不安を乗り越えていた。
もうフィーネをドイツやナチスの手へ返しはしないと。
クリストフがフィーネと出会ったのはドイツにあるSSの研究施設「シュミート」であった。
「鍛冶屋」と言う秘匿名称を持つこの研究所は森の中に隠すように作られたこの施設には様々な人間が居た。
だが大きく分けて研究者と被験者の二種類に分けられる。
被験者はまさに赤ん坊と呼ばれる子供から50代の老齢に入る者まで様々だ。
この被験者はSSの医療部門や研究部門が行う試験に使われた。
戦場での医療をはじめナチス党の要人の影武者となれる人物を整形と教育によって作る事・絶滅収容所で使う毒ガスの開発などが行われていた。
その中でも特に力を入れていたのがアーリア人の人工的生産だった。
1940年代からSSの医療部門で頭角を現したヨーゼフ・メンゲレ博士の双子に関する研究から始まったこの研究は21世紀に入りようやく人間を作り出す事ができた。
更にそこからナチスが望む姿と能力を作り出す段階へ入っていた。
「これが人工的に作られたと言うのか」
「シュミート」にSS少尉の研究員補佐で配属されたクリストフは50233号と呼ばれていたフィーネと出会った。
どう見ても普通の女の子だった。
人間を人工的に作り出すいわゆるクローン技術の成功は極秘だった。SSで医療に関わる学術を学んでいたクリストフだったがクローンの成功は教えられていなかった。
それだけに目の前の少女が男女の交配を経ず科学者の手により作られたとは信じられなかった。
「少尉、これからのドイツはこの50233号のような能力を高く作られたエリートが担うようになるのだよ」
「シュミート」でアリーア人の人工的生産に関する研究の責任者であるルーペルト・ザッハー博士がクリストフに語りかける。
「作られた人間がエリートにですか?」
「作る事ができるからこそエリートにできる。国家が欲しい欲しい能力を持つ人間を作り出せる。官僚も軍人も企業の管理職もそうしたエリートが次代を担うようになる。その目的は分かるかね?」
「アメリカやソ連よりも遙かに優れた国家へドイツが成長する為ですか?」
模範解答をクリストフはする。
「半分正解だ少尉、真の目的はいずれ訪れる次の世界大戦を効率的に行うための人材なのだよ。軍事作戦も工業生産も無駄なくやらねばならない。最後の勝利の鍵を握るのが人工的に生産されるアーリア人なのだ」
ザッハーの説明に壮大さを感じると共にドイツはとうとう人間を本当の意味で道具として扱うのだと思えて戦慄した。
まさに道具だった。
人工的に作られた彼ら彼女達は身体の限界を試すように試験が繰り返された。
ある者は兵士や建築・鉱山の労働者として体力の限界を試され
ある者は将校・管理職として知能をどれだけ短期間で高められるか試された。
役目において細分化され狙撃兵に特化したある者は人工培養された遠くを精密に見る目に交換されるなど道具として扱わねばできない改造手術が施された。
それはフィーネもとい50233号も同じだった。
彼女は投薬と電流による刺激に神経系への手術が施されて試験が行われていた。これが何の試験なのかクリストフには知られなかった。
「50233号の試験は少尉である君ではまだ知る事はできない機密なのだが、少しだけ教えよう。超人を作り出すのだ。人工的アーリア人を次の段階へ進歩させる超人をね」
ザッハーはそれだけ答えたがやはりクリストフには分からない。
だが投薬や神経への手術によって立ち上がれなくなったり、精神の安定を崩して苦しむ姿を何度も見るようになった。
他の被験者の苦しむ姿もクリストフは見てたが50233号の苦しむ姿はクリストフの心を痛めた。
何故ならクリストフの妹であったフィーネにそっくりだからだ。
エルゼは病弱で17歳になる前に亡くなってしまった。試験でベッドと手術室や研究室を往復する50233号が病院と自宅のベッドを往復していたフィーネに重なって見えたからだ。
「被験者を人間と思うな。開発と試験をする為に作られた道具と思え」
「シュミート」へ配属されてすぐに所長から言われた言葉である。
多くの被験者へはそう割り切れたが50233号だけは幾ら月日を重ねても割り切れずクリストフの心に痛みを与えていた。
そのクリストフの心理に決定的な一撃を与えた出来事が起きる。
50233号が車椅子で施設内を移動中の事だった。
中庭でボールを蹴り合う遊ぶ他の子供の被験者達を50233号は羨ましそうに見つめていた。
遊ぶ子供達は身体の育成と手術によるリハビリを兼ねたものだったが晴れの下で遊ぶ子らの顔はどれも笑顔で満ちている。
来る日も来る日も大人達に囲まれて痛みや苦しみを受ける50233号にとっては眩しく見えていた。
だがあの遊ぶ子供達の中に入る事はできない。
車椅子は看護婦によって押され彼女は50233号を気遣って進行方向を変える事はしない。
クリストフにしても車椅子の動きを変えることはできない。
これからザッハーの試験があるのだ。寄り道はできない。
遠ざかる子供達へ視線を向け続ける50233号から涙が流れていた。自分はあの中には入れないのだと悟ったからだろう。
孤独を認識させられ涙が出たのだ。
この涙はクリストフの心を決壊させた。
50233号を「シュミート」から連れ出す計画を立てて実行した。
施設の鍵を盗みIDカードを偽装し、監視カメラの機能を一時的に落とす工作までした。
そうした末に50233号を部屋から連れ出した。
宿題として与えられていた外国語のテキストを読んでいた50233号は午後10時に来たクリストフに疑問を投げかけた。
「夜に試験か手術ですか?」
「そうだ」
いつもの毅然とした態度で言い連れ出す。
「私を何処へ連れて行くんですか?」
車に乗せられる段になるとさすがの50233号もおかしいと気づく。
「ここから連れ出す。投薬も試験も無い所へ」
クリストフの言う意味をすぐに理解した50233号は車へ素直に乗った。
「これから君の名前は50233号じゃなくてフィーネだ。俺が兄でフィーネとは兄妹という事にする。いいね」
「分かった」
50233号へ妹の名前を与えた時から逃亡の日々が始まった。
あの時の涙を流させたくない。それが絶望や後悔をしそうになる時にクリストフが奮い立つ原動力になっていた。
クリストフが抱く気持ちはユリヤも同じだった。
ドイツの人工的アリーア人に対抗してソ連が研究を進める身体改良の研究に苦しめられているレーナを解放したいと思い連れ出したのがユリヤだった。
青年共産同盟で得たエリートコースを投げ捨て一人の少女を助けたい一心でレーナと二人の逃亡を始めたユリヤもレーナの笑顔を絶やすソ連には戻るまいと心の根にはしっかりとあった。
「ドイツ人の少女を保護ですか…手掛かりはあるんですか?」
末松は冴子からフィーネの写真を見せられていた。「このドイツ人の少女を保護する」とだけしか教えていない。
冴子と末松は三宅が運転する七三式に乗り広島市内を移動中だった。
「ある。今はそこへ向かっている」
冴子の断言を示す通りに三宅が運転する七三式は迷う素振りも無く進んでいる。
運転位置表示装置、カーナビと呼ばれる装置を使っての運転とはいえ何かを分かって進んでいる。
向かう先はどうやら宇品らしいのが末松には分かった。そこで何の手掛かりがあるのか末松には分からない。
「軍曹はここで待て、末松少尉行くぞ」
着いたのは広島国際コンテナ埠頭だった。
冴子はずんずんとコンテナが林立する中を歩き末松は後を追う。
「お~いケン坊!」
冴子は一人の男に話しかける。
スーツ姿のキツネ顔な男だ。不愛想に「あ?」と振り返ったその男は冴子を見るなり顔を緩めて笑みになる。
「なんじゃ冴子か。広島にいつ来たん?」
どう見ても娑婆の人間では無い暴力団関係者としか思えない男と冴子が和やかに歓談していて末松は驚く。
「ところで聞きたい事があるんよ。最近外国人をこの港に呼んでない?」
冴子の問いにキツネ顔は顔が引きつる。
「まさかそれで俺を捕まえに来たんか?」
「違う。私の任務はあんたの商売じゃなくて人探し。だから教えてくれない?」
「それならええけど、俺から聞いたとは言わんでくれよ」
キツネ顔はしゃべり始める。
「ドイツとソ連から逃げて来た四人をが来た」
「この子は?」
冴子はフィーネの写真を見せる。
「この子はおった。もう一人同じぐらいの子がおったな。もう二人は大人の男女じゃ」
「その四人はどこへ?」
「まだ広島におるよ」
「いつ広島から出る?」
「予定が立たんのよ。米軍の軍艦が来るけん呉の周りの海は警戒が厳しくなっとる。当分は船が出せん」
「移動手段は船だけ?」
「空路もなんとなるが、ここの空港じゃ大陸に行く便しかない。アメリカやオーストラリアへ行く便が無いからのう」
「なるほど。じゃあ当分四人は広島に居るんじゃね。ケン坊、四人の隠れ家教えてくれん?」
「四人を捕まえるんか?」
「保護よ。私が行かんでもドイツからの迎えが来るよ」
「そう言う訳有りだったんか。損したのう俺は」
フィーネ達が隠れている場所を聞いて冴子は三宅の待つ七三式へ戻る。
「あの暴力団の男と知り合いなんですか?」
七三式の車内に入るや末松は尋ねる。
「実家のご近所同士で小学校から高校までの同級生さ。タメ口で話し合えるぐらいの仲かな」
冴子の答えに本当に冴子は地元の人なんだと末松はようやく実感した。
「大尉、誰か来ます」
三宅が七三式へ近づく男を冴子へ報せる。
「あれは石田警部補」
末松が言う。
「知り合い?」
「業務上知り合っただけですが」
そうしている内に石田は七三式のそばに来た。
冴子が窓を開けてにこやかに挨拶する。
「憲兵大尉神楽坂冴子です。何か御用ですか?」
「知らん顔の憲兵だな。ここで何をしている?」
石田は不機嫌な顔で冴子に尋ねる。
「石田警部補、お久しぶりです」
末松が挨拶をする。
「末松少尉、この大尉は新しく広島に来たのか?」
石田はやや語気を緩めて尋ねる。
「そんな所です」
「そういう事か。まあええ。末松少尉、昔とちごーて憲兵だから何でも無理強いはできんと大尉へ教えてやってください。それだけ言いに来た」
石田は言うだけ言うと去って行った。
「石田警備補は組対の刑事なんですよ。だから暴力団関係者に我々が近づくのを面白く思わないのです」
組対とは組織犯罪対策課の事で暴力団など組織犯罪を取り締まる警察の部署だ。
「縄張り意識か。よくある話じゃね」
冴子はやれやれと言う態度だった。
「大尉、広島憲兵隊は地元との円滑な関係を築いているんです。それを壊すような事は無いように願います」
「分かってますよ」
冴子はあえて標準語で答えた。
「さて、任務を果たそう。隠れ家へお迎えに行くとしよう」
気を取り直すように冴子は言いながら業務用の携帯電話を取り出す。
「司令官、これから探している対象を保護に向かいます。七三式をもう一台と一個分隊の増援を求めます。はいすぐです」
末松は冴子が無茶な要求をして叶うだろうかと訝しる。
「ありがとうございます!」
様子から見て要求は通った様だ。
「増援と共にソ連からの客人も含めた四人を確保する。私らは先に行って周囲の状況確認だ」
三宅も末松も「はい」と答え七三式は皆実町へ向かう。
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